ポエジーを独特の世界観ですくいとる――馬野ミキ詩集『金(キム)』について  ヤリタミサコ

2022年08月12日

○馬野ミキの詩の方法

 言葉というものは、与えられたときからすでに他者が作成して他者が使用している、他人の道具である。しかし、文学というのは、特に詩は、その他人の道具である言葉をできるだけ自分のものとして自分化する、という矛盾する作業を行なうものだ。自分らしい詩を作るためには、他者の眼差し、他者の価値観、他者の文脈に迎合しないでどこまで突き進めるか、にかかってくる。例えると、自分という"ざる"で、他人の使用する水をすくうような、できっこないことだ。"ざる"ですくいあげたわずかな水しか、自分のものにはならない。しかし、詩人はそのわずかな1滴を求めて、"ざる"で水をすくい続けるのだ。
 馬野ミキは、自分だけの"ざる"を多種類持っているし、それも水をすくいとるのがうまい"ざる"ばかり持っている。ちょっとうらやましいと思う人は多いだろう。吉増剛造も、もちろん同様な人だ。
 ただし、その後の処理の問題がある。自分だけの水(=ポエジー)をすくい上げても、また他人の言葉を使って表現してしまうと、"ざる"から抜けて他人の世界に戻ってしまうのだ。わずかにすくいあげた水を、また自分だけのカタチに加工しなくてはならないのだから、ラクではない。
 多数の人たちは、すくうのはすくえるけど、その後の処理が下手な場合が多い。自分ですくいとるという行為そのものだけで他の人の表現とは違ったオリジナルに感じるわけで、それだけで満足してしまうことが多いように思う。ああ、そうか、自分の思いはこういうことだったのだ、と気付く喜びがあるから。しかし、自分独自の感覚をつかんだら、他人の手垢を可能な限り除外して表現する必要があるのだ。
 馬野ミキは、自分独自の感覚を再現する場合も、独特の言葉遣いをする。世間で通用する一般的な連想や思い込み、先入観などは無視して(あるいはそういったものは、馬野ミキ自身に染みこんでいないから使用していないとも言えるが)、自分だけの世界観を突っ走らせる。おそらく、読んでもらうという意識よりも表現したい欲求の方がはるかに大きなエネルギーを持っているのだろう。読者にわかってもらいたい意識があると、他人のバイアスに迎合しがちだが、馬野ミキにはその欲求は少ないようだ。

○馬野ミキのオリジナリティ
 「都営団地の屋上で」という詩の中で、オリジナリティ溢れる1行をピックアップしてみる。

  A ラピュタが入っている規模のどでかい入道雲をみながら
  B 太陽は白から銀色になりそうなくらい震えている
  C 太陽はどういう人生を送っているのだろう

特に、Cは、草野心平の「死んだら死んだで生きてゆくのだ」というフレーズを思い起こす。おそらく、心平と馬野ミキは、同じくらい自由人だと思える。 

     繰り返すが、産まれて初めて自分が経験したことは自分にとって初体験であっても、世界はそれを一般化して、すでに数え切れないほどの体験と同じこととして分類するのだ。上記のAの例で言うと、入道雲はすでに名付けられている名詞で、それだけでは何一つ目新しことはない。が、詩人馬野ミキは、この入道雲の大きさを「ラピュタが入っている規模」と形容する。入道雲の大きさとか、ぐんぐん伸びていく迫力にぐっと思いを引き寄せられる人は多くても、その感動はなかなか形容できないものだ。大きすぎて高層ビルよりもでかいくらい、とか、富士山を超えるのかなあ、という、現実の大きさと比較するのが精一杯だろうか。そこを、「ラピュタ」という想像上の大きさと比較するところで、大きい上に大きいことを描写できる。ここでは、おそらくジブリの「天空の城ラピュタ」が想定されていると思われるが、その語源である、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』に登場する「ラピュータ」であっても、もちろん同様かそれ以上の効果が考えられる。
 Bでは、「太陽は」「震えている」という主語プラス述語だけでも、充分個性的だ。「太陽」という名詞は、一般的にはポジティブ全開、明るさ100%の連想を持つ。それが「震えている」というネガティブで弱々しい述語が続けられることにより、「震えている」を読んで「???」と感じた読者を、もう一度主語の「太陽」に戻す力動を発揮する。結果としては、読者をわかるようなわからないような宙づり状態に放り出す。そしてこういう1行は、他の行の強力なバックアップとなるのだ。わからない状態に陥った読者に対して、その次にもう少しわかりやすいイメージを提示すると、食いつきがよくなるからだ。つまり、目隠ししたあとで見せた映像は、心に入りこみやすいということだ。
 Cは、「太陽」と「人生」という落差の大きな単語を並置することによって、この詩の世界を大きくしている。団地の屋上に寝転がっている二人の人間の人生の重みは、宇宙のサイズからいうとちっぽけなものだ。本人にとっては二つとない貴重な人生であるが、宇宙規模の視点では、アリの一生も人間の一生も大きな違いはない。しかし、地球上の生物にとって太陽は唯一無二の存在で、太陽なしにはアリも人間も存在できない。太陽は、生殺与奪権を持つ神のような存在なのだ。その太陽に向かって、極小の人間が「どういう人生」という自分たちのスケールを当てはめて考える、おかしみがある。

○ネイキッド(剝き出し)ということ
     人は成人年齢になると完全に自由な「住所不定無職」というわけにはいかず、学校とか会社など何かに所属し、ジェンダーや職業や社会による強制的な分類に振り分けられる。それに違和を持つ人は自分でレッテルを貼りなおさなければならない。が、馬野ミキは何度貼り付けられてもそのレッテルを何度でも引き剥がして、ニュートラルを保つような無謀な行為を繰り返す。あるいは、貼り付けられていない状態だと思い込める能力がある。「都営団地の屋上で」の終わりには、そのイノセントな強さが書かれている。「日本男児が昼間から働かず/都営住宅の屋上の鍵を改造し、屋上に忍び込み眠っているというのはよくない//俺は/両手を広げ/爆撃機の音真似をしながらキムに近づいた//ブロロロロロロロロロロロロロォン」と。日本男児としてのレッテルなど、さっさと破って捨てている。潔いと思う。
 抒情への照れがないのも、ネイキッドゆえだ。他者の眼差しを意識しないから、自分の感じたことをストレートに表現する。「朗読会のあとでセックスする」という詩の最後の部分を引用する。「人のいない砂漠で/たまたま出会ったというような理由で/水を得るように/あっけのないセックスを/行う/せめてその夜は幻の城の/王と王女でいる/俺たちが汚したシーツを/洗濯する人間がいることも忘れて。」
という叙述は、多くの心に普遍的に感受されるけれど、誰も書けない種類の言葉だ。自分のセックスを書くというのは、簡単ではない。露悪的だったり戯画的だったりなんらかの心理的枠組みを持って処理することが多いが、馬野ミキは、直裁でさらりとした抒情で描いている。箱庭のような極小宇宙の幸福とでも言えるような、独特の世界観がある。
     自由であること、何ものにも囚われないこと、自分の感覚をそのままに受け取ること、大多数や大きな声に巻き込まれないこと、と、言葉で言うのは簡単だが、実際の人生の場面では困難を伴う。が、馬野ミキの詩の世界では、やすやすと実行されている。もちろん馬野自身の実人生でも実行できているかどうかは知らないが、自由人でなければこういった野放図で野蛮な詩は書けない。飼い慣らされない野生を持った魂の素直な言葉が、自然に詩になっている。短い詩を引用する。「蛆」というタイトル。「金曜に捨て忘れた生ゴミから/蛆がわき/蝿が育つ/燃えるゴミはカキーンの火曜金曜であると記憶したのに/しかしまるで父も母もなく/生ゴミから誕生するとは/きみは創造主のやうだ」とある。これは詩人、馬野ミキの自画像である、断言したい。野生の詩人は、父母から産まれたのではない。自ら産まれて創造主となるのが詩人なのだ。








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