詩とことば(8)奥主榮

2022年06月20日

詩とことば(8)

第一章 顰蹙をかうようであるが(7)
 第二話 脅迫者(其の参)


 前回の原稿を書いているときに、疑問に思ったことが二点。

 まず、「東北の神武たち」は江戸時代が舞台なのではないかと思わせる小説であること。とすると、明治維新以前の数百年間は皇室の存在感というのは薄く、神武天皇の似姿が寒村で一般的なものであったのかということ。現人神というのは、百五十年ぐらい前からかなり政治的な意図をもって流布されたものである。そこいら辺に、僕は意図的なものを感じてしまう。

 もう一点は、深沢が映画「陽炎座」で自作のアイディアをパクられたと感じた部分について。前回、書き落としてしまったのだけれど、アイディアの流用元になった作品は「秘儀」という作品である。作者が博多に住んでいた戦中の回想から始まり、そこで一般的には知られないまま続いている人形作りについての話が語られていく。ごく一部の好事家にしか知られないまま、裏返しにして見ると男女の秘儀が内部に描かれた人形が作られているというのが、作品の骨子である。

 前回も降れたし、一般的な見解として深沢の作品の多くは、完全な創作である小説なのか、身辺雑記的なエッセイなのかの境界が曖昧である。「陽炎座」という映画に使われたこの秘儀に関する描写が、もしも本当に博多の街で人知れず密かに伝承されていることなのであれば、このアイディアは深沢のオリジナルではないことになる。深沢の小説とは別ルートで、博多でのそうした風習を知った脚本家の田中陽造が自作の中に盛り込んだとしたら、別にパクリでもなんでもないわけである。深沢が激怒したのは、作中にあたかも実話のように描かれている秘儀に関する逸話が全くの作り物であったからと理解するしかない。

 余談になるのだけれど、一九七〇年代の前半までというのは、まだ著作権の扱いというのがかなり雑であった。中学生の頃、あるAM局のラジオ番組を聞いていたら、「盗作を自白する」という特集があった。吉田拓郎、小室等、南こうせつの三人が出演する番組で、それぞれ自分がやらかした盗作を自白するという企画であった。(今にして思えば、とんでもない内容である。あわわ。) 吉田拓郎は「春だったね」がボブ・ディランの「メンフィスブルースアゲイン」の、小室等は六文銭時代に発表した「へのへのもへじのあかちゃん」がザ・ビートルズの「レット・イット・ビー」の影響を受けていることについて話した。ツアー中で出演できなかった南こうせつは、「田中くんじゃないか」という曲が「峠の我が家」(アメリカ民謡、音楽教科書に載るような有名な曲であった)のメロディーを使っていたということをメッセージとして託した。吉田と小室は、元ネタが民謡なら著作権侵害が成立しない、南こうせつはずるい、と笑いながら話していた。
 うん、確かに民謡のように著作者不詳の歌に対して、「これは著作権侵害です」という批判は成立しない。
 深沢が「秘儀」の中で描いたアイディアが実際に伝承されているものであれば深沢の批判は的外れなものとなる。また、小説「秘儀」と、映画「陽炎座」での、同じアイディアの扱いは、明らかに異なっている。

 前回、書き落としたこととして、以上の点について触れておく。

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 前回の原稿から、大幅に連載が遅れてしまったことには理由がある。前回、少し触れた深沢の起こした事件(風流夢譚事件、あるいは嶋中事件)というのは、簡単にまとめてしまえば、こうした経緯となる。
 深沢が、「風流夢譚」という小説を書き、それが雑誌に掲載される。内容は、日本でクーデターが起こり、昭和天皇を初めとする皇族の首が斬り落とされるというものであった。
この小説に関して、読んで激怒した方が、掲載誌の編集長宅を襲撃し、全く無関係のハウスキーパーの方を惨殺する。


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 この事件に関して、現在の僕の脳裏に最初に浮かぶのは、イスラム教に関する記述に対して起こったいくつかの事件である。
 たとえば、「悪魔の詩」という小説作品の日本語への翻訳者が殺害された事件。あるいは、イスラム教徒には畏敬の思いを抱く対象を風刺画として描かれたことに対するテロ行為とされる事件などである。
 これらの事件は、多くの日本人にとっては、異質な価値観を持つイスラム圏の方々が社会秩序を無視して行った暴挙のように受け止められたと思う。
 しかし、こと「天皇」という存在に関しては、俎上に上げることそのものが検証抜きでタブーであるという風潮も、日本国という国の社会の中では厳然として存在する。(内容が内容だけに、言い方も慎重にならざるを得ない。) 回りくどい言い方になる。

 しかし、この事件は数多くの問題を示唆していると思える。

 例えば、作家が描いたことが誰かに危害を及ぼすことの責任。それは、極論すれば、こんな問題提起に行き着く。
作家は、誰の神経も逆なでしないような無難な内容ばかりを描き続ければ良いのか。

 そんなことはないと、僕個人は考えている。
 僕が若い頃、カート・ヴォネガットのこんな言葉に感銘を受けた。作家は、坑道の中のカナリアのような存在である、と。カナリアは、坑道の中に有毒な気体が充満したときに、真っ先に死んでいく。しかしそのことで多くの人々に危険を知らせる、と。

 何かを描く人間というのは、他の誰もが当然と思いこんでいることに違和を唱えるものではないかと、僕は思っている。

 僕自身が、「こんなことは当たり前だろ」とか、「みんなこう思っているんだ」という周囲の意見に馴染めず、小説とか詩とかを描き始めた。だから、周囲と違和感があるというのは、創作に関しては、とても大切なことだと思っている。

 いや、周囲と付和雷同するような表現になど、誰が魅力を感じるのであろうか。東日本大震災のときの、「がんばろう」ブームなんて、僕は特定の方々を追い詰めるいやがらせのようにしか思えなかった。というか、本気で殺意をおぼえた。「がんばろう」という言葉が禁句である相手というのも、この世には存在するのである。それが見えない、幸運な人生を歩んでこられた方々がおられるということは、十分に承知しているが。

 周囲の価値観とそぐわない内容の作品を描くということには、全く不当性はない。むしろ、無条件に何かの価値観を信じてしまう人々が構成する社会、そこに身の置き所のない思いを感じている方々を救済する表現活動だと思っている。









奥主榮