「エッセイ 悪について/詩 花へ」泉由良

2022年10月01日

悪について

 忘れられない悪事がある。誰にでもあるだろうか。原罪という語を想うとき、私はこのことを思い出す。
 4歳か5歳だった筈だ。弟のひとりが3歳にはなっていたと思うので、私は5歳か。固定電話が鳴ると受話器を取り上げて「はいワタナベです」と応答する。おうちのひとはいますか? はい代わります。
 電話機は人気ものだった。掛けてくるのが大好きな祖父母かも知れないところも嬉しいことの理由であり、またきちんと対応出来る自分であることが嬉しいので、両親の仕事関係でも良かった。
 そのときは夜で、母は浴室の方に末の弟を連れていっていた。電話はその頃、リンリンではなくトゥルルルルル・トゥルルルルルという風に鳴る器械で、留守電機能は無かった。勿論、着信通知も無い。
 呼び出し音が鳴って、弟が固定電話に飛びつくように走っていった。私も同じく走っていった。
 何度もそういうことがあったのかどうか、覚えが無い。私がこの日のことを覚えているのは、「あっ」というように走っていった弟が私より先に受話器を取ったからだ。
「はいワタナベです!」
 弟はいつものように弾むように云った。
 そのかおを見た瞬間、受話器を先に取られた私は弟の頬に、右手でちからいっぱい、爪を立ってて引いた。
 何も云わず、息を吐くように勢いよく、弟の頬を引っ掻いた。
 幼児のふわふわの頬にはみるみるまに赤い筋が浮き、弟は火がついたように泣き出した。そこへちょうど電話の音を聞いた母が戻ってきて、「何してるの!」と声を上げて弟と私を離した。私も泣き出した。弟の頬に、4本か3本、赤い引っ掻き傷が浮いていた。
 傷つけようと思ったというよりも、痛めつけてやろうというよりも、
 くやしかったとか怒ったというより、そういう感情より以前の行動で、
 でもだから、傷つけてやる、痛めつけてやる、くやしい、私が取りたかったのに、私のものなのに、私なのに、私なのに、私の、私を、私が、と
 全身で元々の心で、私は奪取と攻撃の人間だった。
 今はそうではないかというと、変わらずそういう人間なのだろうと思う。抑えるちからは少しは身についた。違う、抑制ではなく、他人に見えないようにしているだけだ。
 母は私を叱り、弟の頬に傷跡が酷く残ったことはなかったと思う。
 何故あんなことをしてしまったんだろう。
 後悔というより、ときを巻き戻したい。あの日が消えたら良いのに。私なんて存在しなければ良かった。この先私はきっと、また悪いことをする。憎む。暴れる。被害者づらをする。狡く悪いものとして、私は居る。たすけて。治して。


 何が出来ますか偽善者かもしれないのに

 スピーカから小谷美紗子の声が聞こえる。

 私は腿のあたりまで、悪に浸かっている。見に覚えを持つより遥か以前から。元から。元から。






花へ

つつじへ、たんぽぽへ、れんげへ
  シロツメクサへ、ハルジョオンへ、
  幼稚園児だった私へ

″花を食べるのはイケナイことだよ。
     /彼女は花が好きだったの。″

情を持たない人間は花を摘む
何mlにも満たないそんな蜜を吸う為に千切って歩いた
可憐だと思うとすぐ引っ張り取ってくすねた
萎れたら棄てて忘れた
何千年も昔から
私はそれを繰り返している
生活とは別の心で
花が


 摘む、摘む、摘む、切る、切る、千切って、毟る、毟る、毟る、潰す
 吸う、喰む、喰う、噛む、噛む、噛む、吐き出す、棄てる

摘摘摘・摘摘摘・切切切・毟毟毟毟毟毟・毟毟毟
潰潰潰吸吸吸吸吸吸吸・吸吸吸吸喰喰喰喰喰・喰喰喰・喰喰噛
噛噛噛噛噛噛・噛吐吐吐吐・吐吐嘔嘔嘔・嘔棄棄
腐腐腐腐・腐
嫌悪・嫌悪
嫌悪
躑躅の蜜
甘い......ハルジョオンヒメジョオンハルジョンヒメジョオン......

開きすぎたチューリップは開脚した女みたいでいやらしい
チューリップを摘んだことは無い
園庭で草を触っていた太古の頃
私は既に悪魔だった