「男二人」湯原昌泰

2024年02月03日

 母がこの三月で仕事を辞めるという。今年でちょうど七十歳。五人兄妹の長女であり、また、あまり仕事熱心でない祖父を父にもった母が看板塗りをして金を貰ったのは、まだ小学四年生の時だった。以来僕が生まれてからの育児休暇以外で働いていなかった時期はなく、ある時は町工場の社員として、スーパーで試食を勧めるマネキンとして、大学で学食を作る学食のおばちゃんとして、五十九年間働き続けた。もう足が痛いのだそうだ。仕事終わりに自転車のペダルを漕ぐことが、もうできないのだそうだ。

 その母のもっぱらの趣味は神社・仏閣巡りであり、時間を見つけては痛む足を引きずって、東京、千葉、神奈川のあたりをまわっている。ならそんなにも神や仏に帰依しているのかといえばそうは見えず、また、金を使うことを悪いことだと思っているのか、「もう行かないから。これで最後にするから」と毎回言い訳のように僕にいい、そのくせしばらくするとまたひょっこり、朝早くに出て夕方までには戻ってくるという日帰りの旅に出ている。僕は母のこういうところを尊敬している。つまり、楽しんでいるのだ。痛む足を引きずって、何とかしてくださいと神仏に頼りにいっているのではない。一筋縄ではいかない人なのだ。

 さて、母は高校の頃野球部のマネージャーもしていた。同世代には定岡正二や江川卓がおり、県立の商業高校だった母の学校には彼らのような大エースはいなかった。だが部は団結力で県大会を勝ち進み、高校3年生の夏、念願叶って甲子園に出場することが決まった。当時の野球部ではマネージャーは部員として数えられていなかった為、母は甲子園に行く旅費、滞在費を自費で捻出しなければならなかった。だが当然家には金がない。そこで祖父は母を連れて東京に住む一つ上の兄の元へ行き、土下座をして金を援助してもらった。「これで最後だ、もうお前とは兄弟の縁を切る」そういわれた金だった。その帰りしな、祖父は「思ったより多くもらえたから寿司でも食って帰るか」と母を連れて寿司屋に入り、イカだマグロだと食ったらしい。「いい話だな」僕がいうと、「きっと父ちゃんつらかったんだよ」と母はいった。俺は俺のやり方で娘に寿司を食わせたぞと祖父がいう。なら俺も俺のやり方で、何か食わせてやらねばなぁ。





湯原昌泰