「道へのオード」究極Q太郎

2023年09月06日

 (五年前のある日、散歩を始めた。次第に距離を伸ばし、長い時間をかけるようになる。そのうえ体に負荷をかけて歩くようになった。やがてまったく疲れなくなり、いつしか世界が別様に見えるようになっていた(クレイアニメのように見える)。それを私は「サンパーズ・ハイ(笑)」と自称していた。
 そんなある晩。ニーチェが(その先にストア哲学が)「永劫回帰」と呼んだものを体験してしまう。私の生を現在あるようあつらえてきたものが、この先もずうっとこうあつらえていくだろうという観念(運命愛)が体を包み込んだ途端、映画『マトリックス』のワンシーン、光記号の羅列が列車のように走り抜けるシーンにも似た、あんなふうな「走馬灯」とおぼしきものが私を走り抜けていった。私はそれに打ちのめされ、ただただ慄いてしまった。

 我ながら荒唐無稽な話である。だが、そうしたことを逐一よく聞いて、私の変化の証人になってくれていたのが、だめ連のぺぺ長谷川さんだった(その頃、週に二日顔を合わせていた)。最初は鼻で笑って聞いていたが、彼もスピリチュアル的な「旅(トリップ)」に対する関心、見識を持っていたので、やがて私の体験に解釈を加えるようになった。 永劫回帰体験は、彼によると「臨死体験の時に出る脳内麻薬DMT(ジチメルトリプタミン)が出たんだよ」ということになる。確かにその頃、私は一日四万歩以上歩いていたとは思うが、それに比べて食べる食事量が極端に少なく(一年で20kg体重が落ちた)、体がこおむっていたストレスにより幻を見たのかもしれなかった。

 そのぺぺさんが二月、胆管癌に斃れた。彼とは三十年以上前に知り合い、共通の多くの体験、多くの対話を重ねてきた。私の生の少なからぬ成分は、彼に由来するものだろう。
新しい詩集『にしこく挽歌』は、その思い出に捧げたものである。)

『道へのオード』

ただの散歩が
長い旅へとかわるまで歩く。
ゴールを持たない
あの旅のことだ。
もはや何もかもが窮したと思い
進むべきとこだわる道は尽きたのだった。
そっと身を軽く
離すようにさまよいだす。
あとはひたすら
歩いていくのみ
あとはひたすら
それに沈潜する。
いまどこにいて
私とは誰なのか
見失いかまわなくなるほど
陶然とする時には
私が
道そのものになっている。

それは詩人たちが
語ってきた通りだった。
いつしかわだかまる思いが
晴れあがる。
そして眩むほどまばゆい
今日という今日が
開かれるだろう。
(目から鱗がはがれたように
見えかたが変わっている)
そして先行きの暗さに
怖じけづかぬ
ためらいのない足取りで進む頃には
その道が尽きることは
ありはしないと分かる。

道ゆく先で出会う人と
ふれあい、抗うなかに
対位法のように絡む
誰かをえるだろう。
その誰か、わかちあう人に
崩されながら
君の足取りは
粘りのあるリズムを
おびるようになる。
もとより意のままにはならない
この世界なのだ。
完膚なきまで
崩されることがないため

君の粘りが
より深い世界へ
抜けていくときのため。






究極Q太郎