「一つの試み」奥主榮

2026年06月16日

 東京杉並区の、阿佐ヶ谷にある映画館Morc阿佐ヶ谷で、6月26日(金)から7月9日(木)までの2週間、「金子文子 何が私をこうさせたか」(浜野佐知監督)が上映される。
 金子文子は、関東大震災のどさくさに、パートナーである朴烈とともに逮捕され、大逆罪という名目で獄中に投ぜられた女性である。映画は、主に彼女の獄中での日々を、フィクションを交えて描いていく。(このフィクションの部分には、かなり強く映画製作のスタッフが、どのようなメッセージを百年後の現在に伝えようとしたかが満ち溢れている。)
 この映画を、僕はユーロスペースでの初公開時に観た。そして、魅了された。そして、行きつけのMorcで上映されると知って、金子文子をテーマにした文章を描いた。何回か書き直して仕上げた文章を、フリーペーパーとして、映画館のロビーに置かせてもらうことにした。

 これは、他の作家(詩人も含む)の方々も同じであろう。少なくとも僕には、不特定の方を相手にした場所で、自分の創作物を公開して、どのように受け止められるかを知りたいという気持ちがある。映画館のロビーに、自分の考えたことを描いた文章を置かせてもらうという行為には、そうした意図がある。
 過去にも何回か、こちらの映画館には、僕の描いた感想文を置かせてもらっている。ドキュメンタリー映画「大きな家」から始まり、何本かの映画についての文章を、フリーペーパーにさせて頂いた。上映が始まってから感想文を描いたので、ロビーには置かずにnote等で公にした文章もある。「桐島です」(高橋伴明監督)などは、Morcでの上映前に観ていたので、ロビーに置くことが出来た。
 ただし、一本だけロングランとなった作品だけれども、ロビーに置くのをこちらから辞退した文章もあった。「1923」(キム・テヨン、チェ・ギュスク監督)というドキュメンタリーである。画面上での副題が、「関東大虐殺」。震災時に意図的に流されたテマゴーグにより殺された、無辜の人々を描いた映画である。いわゆる朝鮮人虐殺である。
 この事件の背景は、根が深い。日韓併合呑みながら、日露戦争や米騒動についても調べていかないと、理解できない部分がある。それらについて、なるべく分かりやすく描いていこうとしていたら、情け容赦のない内容になってしまった。
 昔、東中野にある映画館で、従軍慰安婦に関するドキュメンタリー映画が上映されたとき、客席でテロ行為を行った方がいた。僕の書いた文章は、あくまでも文責は僕に在る。(無署名の文書ではない。) しかし、それを置いている映画館の意見だと誤解した短絡的な誰かが、暴力的行為を行ったらということを懸念した。僕は、自分が何かしらの縁で関わり、言葉を交わし合う一人ひとりを大切に思っている。けれど、ろくに相手のことも知らないまま、気に入らないと思い込んだことが一つでもあれば暴挙に走るような誰かが存在することも知っている。
 過激な内容を書いたつもりもないが、このときは「(映画館の)スタッフの方々だけで閲覧してください。」と伝え、プリントアウトしたテキストをお渡しした。

 今回の「金子文子」に関する僕の文章では、過去に得た知識とか、文章をまとめるために調べたことなどを動員していった。
 そうした中で、女性の人権が無いもののように受け止められていた時代というものについて、改めて考えさせられることが、多々あった。
 僕自身の中に、可愛らしいとか美しいといった特性を女性に求めるような偏見がないかということから始まり、様々な形で誰もが抱えている問題について、自分の考えの及ぶ限り触れてみた。そこから考えをまとめていって、伊藤博文の性的な自堕落さや、大杉栄の自由恋愛が非難される、ダブルスタンダードな価値観を抱えた日本社会。
 しかし、そうした時代背景から浮かび上がってくる、女性蔑視が当然な当時の社会背景。正直、反吐が出そうだった。戸籍すら持たない金子文子が、苦難の末に出会った「主義者」は、金子が(肉体関係を持つ結果の)妊娠の不安を口にすると、無関心にバイオリンを弾き始める。(これは、映画ではなく、金子の獄中手記に残されたものである。)
 どう考えても、最低の糞野郎の行為でしかない。「主義者」の社会改革といった意識の底の浅さを露呈する描写としか思えない。僕は、フリーペーパーの中で、そうしたことについてふれていった。

 余り口当たりの好い文章ではないかもしれない。けれども何だか、僕にはこうした話題も、金子文子が現在にも投げかけ得た問題提起であるように思えるのである。

 この映画に興味を持たれた方が、一人でも多く上映会場で足を運んでいただければ、僕はとても嬉しいと思う。

2026年 6月 14日





奥主榮

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