「スナック キヌミはもうないんだって」北岡俊
噛まれた歯形に視線がみるみる沈んでいく、まだ焼け焦げたままの時刻だけが示す朝が誰の形にもならずに迫り上がるころに。歯型の形状や半径や雰囲気から恐らくは小型犬かネコ科などの小さな獣のものかと思ったが私は小型犬はおろか生物の飼育というものをしておらずそもそもが私の居住する部屋は借り受けているもので生物の飼育は全面的に禁止されている。一度、大家である上階に住む中年女性が抜き打ちで訪ねてきた事があり、何か生物を飼っているのではないか? と問いただしてきやがって極めて不快だし心外、強力に飼育していない旨を伝えたがなかなか信用されず部屋に上げて隅から隅まで見学させてみたものの彼女は明らかに納得していなかった、何が何でも生物の飼育に関わらず、どんな些細でも私には何かしらの非があると見定めたかったのだ。そもそもが私の居住する部屋は借り受けているもので生物の飼育は全面的に禁止されているのだから何か私が生物を飼育する事はなく私が何か生物を飼っているのではないか? という疑問を持つ意味もわからないが、大家である中年女性は私の部屋の真上つまりは、アパートの最上階である二階の奥が住処であり彼女は少し離れた場所でスナックを経営している。以前は自身の名前の〝キヌミ〟という名前の店だったがいつの間にか〝ナカヤマを殺す〟という店名に変更していた。このナカヤマというのはキヌミにとってそこに有るという存在のみの曖昧な人物であり姿形などはなく精神のみで屹立しているイマジナリーフレンド的な人物で、などの事情を知っているのも私の部屋にキヌミが立ち入った際に生物を飼育することの愚かさ傲慢さ醜悪さ経済的に追い詰められるなどを散々解いたのち自身はその代わりに、イメージとして所有するナカヤマの、日常の鬱憤を聞き入れ意見には常に肯定し生活費などもかからないという徳の高さを私にぶちまけたからだ。しかし何故いまそんな徳の高いナカヤマを殺したいのか、その感情を名詞として自身の生業とする場に使用しているのかは分からない、分からないこと、私へと届かない関係がひしゃげたまま朽ち果てていくというのはそう珍しい事ではない。
徐々に右腕が上がらなくなる、窓のスリムな隙間から入り込む熱風が部屋の中を執拗に舐め回していき等間隔に凹みが肌に並んでいるだけにみえていたが思っていたよりもきつく噛み締たらしく歯が皮膚を少し貫通したのか赤い色がうっすらと滲み、感情だけの心霊と呼べる姿のまま立つ私がそこにいる、という事を思い返せないのだから私に認知されずに噛みつかれた、というのが事実として残っている。とにかく一度医者に見せた方がいいかもしれないとドアを開け外に出ると同時に飛び出してきた隣人、灰色のスウェットのセットアップ、背景は白、と鉢合わせになり目が合ったが特に何かを交わすこともなく、彼は背景の白へと駆け出していき最初のうちはただ白の中で灰色が縮小されていくだけだったが、次第に灰色が白へと混在し挙句に掻き消えてしまい打ち負けた灰色はもはや白く澄み渡り、彼のようで何者もあるべきだ。
