「抒情の黄金律 ー詩の根源はどこにあるのかー 第1回 序 愛と詩」平居謙
これまで18回に渡り、「わが地名論」を連載してきた。当初は1年半ほどで終了する予定だったが、思いのほか、自分自身と〈地名〉との関わりは深く、前回の段階でもまだ4分の1程度でしかない。そこで、一旦前回までで第1部を終えるという形で中断。しばらくの間、別のテーマで詩について考えてみたい。それはまた、第2部を考える際の新しい視角を連れて来てくれるだろう。
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今回より、「抒情の黄金律 ー詩の根源はどこにあるのかー」と題し、詩の中心である〈抒情の根源について考えてみたい。そういえば本サイトのタイトルもまさに〈抒情詩の惑星〉であるから、何だかサイトの意味について考えるようなところも少しある。キーワードは〈幼時〉である。
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幼い者は体験が少なく、それゆえにあらゆることが新鮮に映る。記憶にも残る。美しいものが美しいままの形で記憶され、深く心に刻まれる。それは万人が納得するところだろう。
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それだかといって必ずしも幼時のことを書けば詩に肉薄できる、というわけではない。幼時の醜悪な体験は印象の強さゆえに、詩と同じように強く心のなかに根差し、やがて罪を熟成させる。
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基督に言われなくても、人は穢れている。その証拠に、毎日ありとあらゆる形で糞尿を散布する。放置しておけば、糞尿のように穢れた影が心の全体を覆ってゆく。だが、そこに差し込む幾筋かの光をわれわれ人間は記憶の形で有しており、それに良心だとか純粋さだとか美意識だとか分かったように適当な名前を授けるのだ。
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その光の極北にあるものが詩で、あまりにも眩しすぎるため、多くの人は目をつむったり、背けたり、あるいはなかったことにしたりする。しかし詩は確実に存在する。
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幼時のおだやかな気持ち、父母の言葉、友達との喧嘩、擦り傷、切り傷、突然あふれ出る理由の分からない涙、ペットの死。捨てられた人形、悲しみのオルガン、そして最初の記憶。
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この連載では、単に幼時を懐かしむごとき回顧録を超えて、そこにこそ存在する詩の根拠にせまろうとする。詩と罪との、鬩ぎ合いの中に、愛が発生する。
