「好運にも前科者とならずに済んだ方々に やはり前科者でもない僕から、それでもあえて伝えたいこと ―映画「ミックスモダン」について―」奥主榮

2026年07月23日


 阿佐ヶ谷の小さな映画館、Morc阿佐ヶ谷で、「ミックスモダン」(藤原稔三監督)を観た。犯罪を行い、少年刑務所での服役を終えた男性を描いている。
 未成年者が起こした犯罪に関して、犯罪の目に見える側面が凶悪であればあるほど、その報道などに触れる側は加害者の側に問題があるように考える。そして次には、少年であろうとも教育刑(矯正を目的とした刑)ではなく、報復刑(懲罰的な側面が濃い刑)が科せられるべきであるといった声も浮上する。
 しかし、余り知られていない事実であるが、そうした事件の加害者の多くは、彼ら自身が人間として大切にされずに育ってきている。生まれ育った環境の中で、自分を尊重されずにきてしまった。その結果として、自分以外の誰かの存在を大切にするという感情を育てられないままでいた場合が多い。
 とはいっても、現実に理不尽な被害を受けた者の側からすれば、加害者の抱えた背景などは、何のエクスキューズにもならない。当然のことではあるが相手の言い分など、もう感覚的に容認し難いのは当然のことである。この映画「ミックスモダン」は、その複雑に錯綜した人間同士を、非常に鋭く描いている。しかし、その語り口は一方で、ぶっきらぼうである。登場人物たちの置かれた状況を、積極的に説明はしない。断片的に、様々な登場人物の日常の生活を描いていく。(以降の僕の記述の中には、映画の内容に触れる部分―いわゆるネタバレ―も含まれる。)

 そうした日常描写の一例を挙げてみたい。
 この映画の主人公は、刑期を終えた後で、家族からの身元引き受けを拒まれる。彼の引受人となり、同時に仕事を提供するのは、個人経営であろうお好み焼き屋の主人である。さて、その妻が、店のシャッターに貼られた悪意の込められたビラを無言で剥がすシーンが、二回画面に映し出される。しかし、その背景も、心情も詳細には描かれない。「更生している若者がいて、それを阻む社会が存在する」といった二元論的な描き方は、意図的に省かれている。前科者を雇う職場では、そうしたことも起こるのだ。そうした社会的背景を、ただ観客の前に投げ出す。そして、そうした現実は、あくまでも登場人物たちが日常生活の中で出会う、当然受け入れなければならないことである。
 こうした視点は、この映画の傑出した特質である。もしも映画製作に関わる側の、何らかの問題意識が強く前面に押し出されてしまえば、観客は登場人物の一人ひとりに心を寄せる機会を失いかねない。しかし映画は、登場する一人ひとりの向かい合わされる現実を、普通の生活者が日常の中で味わう、当たり前のような苦汁のように描いていく。 そうした生活感覚は、主人公が被害者家族に謝罪に会いに行ったとき、感情的に「二度と来るな」という言葉を浴びせられるくだりでも、はっきりと分かる。「刑期を終えた(過去の犯罪に対する責任を果たした)」という建前になっている相手を、被害を受けた側はけして許すことが出来ない。

 そうした現実と向かい合う中で、主人公は必死に更生をしようとしているように見える。映画の冒頭で、身元引き人になってくれるかもしれないお好み焼き屋の主人に、懇願をするシーンにも見え隠れする。真人間になりたいという彼の言葉は、真剣に思える。願いが叶い働き始めた彼は、職場に昔の仲間が会いに来て、いろいろと誘われても、「すまん」としか返事をしない。
 しかし、初めて得た給金で家族に会いに行ったとき、家族が主人公には告げないまま、既に引っ越していたこと(つまり親が我が子を「捨てていた」こと)を知る。
 その後のシーンで、以前の仲間と付き合い始めたことが暗示される。しかしそれは、主人公がまた不適切な仲間との交流を始めたという描き方ではない。
 おそらくは、そうした(一昔前の映画であれば悪い仲間という烙印を押すかのように描かれていた)人々の一人ひとりが、自尊感情を持ち得ないままに育ってきたのだろうことも想像させられる。

 主人公はけして、更生の為に努力する美しい人間としては描かれない。何かあると、嘘をつく。客が置き忘れた札入れを見つけたとき、すぐに届けず、トイレの中で中を覗く。しかし、客の忘れ物が大きな問題になりそうになると、すぐに「忘れ物がありました」と申し出る。見つけた直後に届けなかった理由について、見え透いた嘘を重ね、結局は見透かされてしまう。
 しかし、この、嘘というキーワードは、後半において大きな意味を持ってくる。 映画の中で、断片的に物語が展開していく中で、登場人物たちのいろいろな背景が見えてくる。主人公を担当した保護司は、かつて主人公を雇ったお好み焼き屋の主人の保護司でもあったことが語られる。雇い主は、その保護司が担当した最初の少年犯罪者であったという。また、そうした店主の弟が、所属していた暴走族による私刑によって、若くして亡くなられたことも示される。しかし、その詳細はくどくどと説明されない。


 どんな人間も、一人の生活者として、様々な事情を抱えて生きている。そうした、誰にもあることと同等のこととして、登場人物たちの抱えたものを、受け手の感情を煽るようにしてではなく、描いていく。そうした表現行為の中で、観ている人間に、考えるという気持ちを生み出させていく。

「更生」という名目を与えられた主人公自身の実感は、実際にはそれに付いていけていない。模範的に振る舞えば、自分が許容されるのだろうかという程度の気持ちしか持ち得ないのだろう。彼の中では、社会的な存在である自分という意識が希薄なのである。というか、そうした意識を持ち得ないままの環境に育っていたのである。
 僕自身が子どもの頃に、周囲という漠然とした存在に自分を合わせていかなければ、無言の圧力で殺されてしまうのではないかという、漠然とした恐怖心を抱いていた。少しでも自分たちと違う感覚を持っている相手に対しては、どこまでも無慈悲に振る舞ってしまう社会。割と平穏な生活を送ることが出来た僕でも、そんなことを子どもの頃には感じ続けていた

「出所後に親と会えなかった」ことがきっかけで、「昔の仲間との交流を始めてしまう」といった上ッ面の解釈を許さない強さを、この映画は持っている。

 息苦しい今の時代に、二十歳未満でもアルコールが提供されるような店。そこで、主人公は一人の少女と出会う。おそらくは、世間様からは「まともな」人間だと扱われないような、けれども実は頼りない一人の人間。主人公は、そんな少女に惹かれる。しかし、それは「保護観察下」という彼の状況では、周囲に隠したい関係でもある。彼は、大切に思えるものを守りたいと、また嘘をつく。

 映画を観ている側からは理解できる。彼女もまた、自分が大切に扱われないという経験を繰り返し体験してきたのだということが。そうして、ないがしろにされ、追い詰められた状態で、あれこれをしでかしてしまったのであろうと。僕は、社会的不適格者であるように見える彼女が、部屋から出ることが出来なくなっている兄に弁当を買ってくるシーンが印象的であった。おそらくは、彼女の親こそが、子育ての出来ない人間であったのだろう。しかし、そうした存在を否定したり弾劾したりする方向には、映画は進まない。
 ただ、そうした生き方しか出来ない誰かもいるのだということを、静かに描いていく。

 自分と同じように、自尊感情を持ち得ない人間との関わりの中で、主人公もまた翻弄されていく。相手の態度に不安をおぼえ、自分を傷付けるような高度の結果、主人公は体調を崩す。店主から彼の家で休むように言われる。そこで店主の妻に介抱されることとなる。そうした経緯で訪れた店主の家にあった、店主の殺された弟の写真に目を留める。そして、当たり前のように語り始める。その弟さんが、「焼き殺された」という事実は、主人公にとっては家庭での日常的な記憶を引き出すものだった。自分もまた、親から何度も「焼かれた」と口にする。内容は具体的である。
 ジッポのオイルをかけられ、身体のあちこちを焼かれた。
 そうした体験を彼が、笑い話のようにしか口に出来ない姿が、映画を観ている僕には、余りにも切なかった。
 僕自身にも、自分の感じている苦痛を、まるで笑い話であるかのようにしか口に出来ない時期があった。

 しかし、そんな主人公が気持ちを寄せた少女が、再び逮捕される。
 その後の過程で、登場人物たちを取り巻く状況が、一般的には面倒なものであるという状態になってしまう。けれども、ここからの展開が、とても素晴らしい。主人公、身元引受人、その妻、保護司、そうした方々の判断が交錯していく。
 ここでの登場人物たちの、何が正しいのか、誰もが判断が出来ないという描写に、僕は圧倒された。

 そうした中で、主人公は初めて身元引受人となってくれた店主に告げる。「初めての給与で父に酒を買って、会いに行ったとき、『とても喜んでくれた』と話したのは、嘘だった」と。
 これが、「ミックスモダン」という映画の、僕が最も優れていると思う描写なのである。
 このときに、彼は嗚咽している。もう一度、明記しておきたい。この世界には、自分自身が人間として尊重されてこなかったから、他の誰も尊重できないまま生きてきた誰かというのが、確かに存在している。
「更生」、「真人間になる」といった、保護観察下でのご立派な目標に、彼は合わせようとしていた。自分が周囲からはおかしな存在であり、同時に無価値な人間だと思われていることは自覚していた。一方で、犯罪行為に走ることでしか、そうした不安を解消できない、自分でも制御できない情動も持っていた。しかし、それは心からの望みではなかった。
 彼が撒き散らしてきた「嘘」は、けして彼が周囲の善意を拒否した結果では無かった。おそらくは、自分自身でも、自分というかけがえのない存在を尊重することが出来ない中で苦しみ続けた。
 彼はただ、「初めての給与でお酒を買って行ったら、両親は喜んでくれた。」といった「美談」や、そうした価値観の背景になる「規範」に自分を合わせようとしていたのである。
 そうして、更生の為に頑張っている自分を作り出し、努力している自分を演出していく。しかし、そうした嘘を重ねて作り出した世界では収まりきらない場所で、初めて自分が大切に思える相手(少女)と出会う。
 主人公は、けして理想的な人間として描かれない。けれども、自分が周囲の規範に合わせて行動することでしか社会から受け入れられることはないと思っていた意識が、「親から捨てられた」という事実を告げる(嘘を告白する)。 それと同時に、自分と同じように自尊感情を持てないままに育った少女に対して、彼女の妊娠も含めて真剣に向かい合おうとしていく。

 この映画を観た方々に対して、僕は客観的に観賞などして欲しくないという気持ちが、とても強い。
 むしろ、スクリーンに描き出される一人ひとりが、何に、どうして悩み、苦しんでいるのかを、登場人物たちと一緒になり、考えてほしいなと、そんなことを祈ってしまうのである。

 少女が、母親と公的機関の中で対峙するくだりの中で、僕の心に強く刻み付けられた描写がある。
「私を指差さないで!」と少女が叫ぶ。好運な人生を歩んでくることが出来た方には、分からないかもしれない。何らかの形で、「指差されて育つ」ことの恐怖など。

 好運にも、前科者にならずに生きてきた僕は思うのである。もしも、子どもを守ってくれるはずの家の中でまで、「指差されながら」生きる毎日を送っていたとしたら、僕はどれだけ凶悪な犯罪者となっていたのであろうか、と。
 この映画を観た後で、僕は強く思った。僕は、自分が前科者にならずに済んだのは、好運にも僕を大切にした家庭に生まれ育ったからだと。
 もしも誰かを断罪できるという立場というものが、たまたま育った好運な環境に依るものであるとしたら、僕はそれに抵抗したいと考えている。

 人生には、結論など存在しない。だからこそ、改めて観ている僕に様々なことを考えさせてくれた、そんな映画を、一人でも多くの方に観て頂けたらと思っている。

二〇二六年  七月 一〇日~二二日





奥主榮

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