「トラウマは消えないけれど」つつみ
6時31分、今日は実家へ帰ることになっていたけれど、まだ誰も起きてなくて、もう少し眠ることにした。起きてしまうと、ゴミを出したり、荷物をまとめたりしなくてはならない。
目を瞑ると、水に浸した新聞紙の文字がにじむように、気になっていたことの輪郭が少しずつ崩れていく。私の既読を待つ母の顔、未開封の郵便物、母親としての心配ごとも。
そして、ほどかれた毛糸玉のようにばらばらになり、朝になるころには別の編み目で編み直されているが、私はそのほとんどに関与していないと思う。
おそらく、どこからかツチブタがやって来て、私の頭の中にある蟻塚のようなものを掘っているのではないか。そこには、昔、3日で辞めた会社のロッカーに置き去りになった私物や、優秀な妹と比較する叔父の顔、子育ての後に待つ親の介護なんかが埋まっている。
ツチブタは長い鼻先を差し込み、その中から私の記憶を食べる。何を基準に選んでいるのかはわからないが、目が覚めると、会社を早々に辞めてしまった罪悪感は、とりあえず引き出しの奥へ押しやられ、叔父の言葉もどの頁に書いてあったのかわからない。介護のことだけは相変わらず大きいのだが、少なくとも今日は持ち上げなくていい、と思える。
目覚める前に見る、妙に筋の通らない夢も、ツチブタが作業の途中で脇へ積み上げた土の山にすぎないのかも知れない。頭のどこかに新しい穴が開いていて、その穴の形に沿って新しい一日を過ごしている感覚があるからだ。
不意にゴミのことが気になり、ゆっくりと体を起こす。足の裏がフローリングの床につくと、床が少し冷たい。昨日まで気づかなかった季節が、夜のあいだに部屋へ入り込んでいた。台所へ行き、ゴミ箱を開けると、腐った臭いが鼻をつく。
臭いには、時間を逆向きに歩く性質があるらしい。臭いを蓋で閉じ込めても、ビニール袋の結び目を二重にしても、魚は魚のままだし、納豆は納豆のままで、食卓にいた頃のことをなかなか忘れてくれない。だから私は、できるだけ小さな袋に閉じ込めて、結び目を指で確かめる。
ゴミ置き場へ続く道の電柱の根元には、雨のたびに流れてきた砂が薄くたまり、その上に茶色くなった葉が一枚貼りついている。側溝の格子には細い草が数本生え、誰かの家の庭からは、白い花が金網を越えてこちら側へ傾いていた。
金網で囲まれた小さなゴミ置き場の前に、何か白っぽいものがうずくまっている。近づくにつれそれが猫だとわかった。白と灰色のまだら模様で、耳の先が少し欠けている。
猫は半分ほど破れたゴミ袋に顔を突っ込み、中身を漁っていた。そして、ときどき独り言のように何かを呟いている。風に紛れてよく聞こえない。
「……これは……めずらし……」
「……ほ……ど…皮じゃ……」
そんな断片だけが流れてくる。思わず立ち止まる。猫はぱっと顔を上げた。聞かれたと思ったのか、気まずそうに耳を伏せ、空き地のほうへ数歩駆け出した。そして途中で振り返る。鼻先には魚の鱗が一枚貼りついていた。
私はしばらくその姿を見ていたが、やがてゴミ置き場へ向かった。袋を置き、網をかけ、帰ろうとしたとき、背後で砂利の鳴る音がした。振り返ると、さっきの猫が戻ってきている。私から一定の距離を保ちながら、ゆっくりとゴミ袋へ近づいていく。
袋を嗅ぎながら
「ずいぶんとみすぼらしいもんだ。」
と言った。
私はしばらく黙っていた。猫が喋ったことよりも、みすぼらしい、という言葉のほうが気になった。思い切って
「……何がですか。」
と訊くと、猫は欠けた耳をぴくりと動かし、何かを量るような目でじっとこちらを見た。そして、
「あんたのゴミだよ。」
そう言うと、猫は鼻を鳴らした。鼻先に付いた魚の鱗が一枚揺れる。
「普通はもう少しあるものだよ。買いすぎたもの。作りすぎたもの。食べきれなかったもの。」
遠くで軽トラックのエンジン音が聞こえた。猫は耳だけをそちらへ向ける。そして続けた。
「あと、書き損じた手紙とかね。」
私は思わず笑いそうになった。ゴミ置き場でゴミを漁っている猫が、手紙の話をするのは妙だった。
「うちは、そんなに……」
「そうだろうね。あんたのゴミは、ずいぶん行儀がいい。きっと上手に暮らしているんだね。」
その言い方には、責めるような響きも、褒めるような響きもなかった。ただ、(雨が降りだしたよ。)と言うときのような声だった。
風が吹き、生け垣の葉が擦れ合う。
猫は大きく伸びをした。背中が弓なりになり、毛並みが朝日に逆立つ。
「ただ、人間は何かを抱えたまま過ごしてると、案外たくさん散らかすものだから。臭いすら気にならなくなるほどにね。」
(何かを抱えたまま過ごす。)
なぜか、実家の食卓や母の顔が浮かんだ。母が夕飯を作ったあとの台所。まな板の上に置かれたままの野菜くず。床に置かれた鍋。新聞紙を広げた上にちらばった栗の皮。その晩の栗ご飯はとても美味しかった。
どこかの庭から風鈴の音が聞こえる。
猫は前足に落ちた魚の鱗を丁寧に舐めると、私にはもう用がないというふうに背を向け、再びゴミを漁り始めた。
