POETRY CALENDAR TOKYOとTOKYO READING PRESSについて カワグチタケシ

2022年04月01日

 抒情詩の惑星にPOETRY CALENDAR TOKYOについて書いてほしい、と馬野ミキさんから依頼があり、記憶を掘り起こしている。20年前のことなので曖昧な部分も多いが、楽しかったり、辛かったりという感情についてはほとんど記憶がない。現在に限らず、当時も大きな感情の起伏を伴うようなものではなかったと思う。発行人の斉木博司がいつも言っていた通り、砂利道をアスファルトで舗装する仕事に感情は必要ない、ということだったのかもしれない。

 2000年の前半のいつだったか、自宅の固定電話に小森岳史からかかってきた一本の電話。西荻窪のブックカフェHEARTLANDで店主の斉木博司とビールを飲んでいるという。POETRY CALENDAR TOKYOというフリーペーパーを一緒にやらないか、と言われた。小森とは1998年にHEARTLANDで出会った。意気投合というようなものではなかった。僕の朗読会を聴きに来て、斉木に紹介された数日後、僕のパフォーマンスと当時オープンマイクを中心に東京で形成されつつあったポエトリーリーディングシーンをディスる長文のメールが小森から送られてきた。

 その後2年ほど経過し、小森とはある程度打ち解けた間柄にはなった。ロンドンやアムステルダム、ニュ―ヨークでも暮したことのある小森が、ニューヨークにはポエトリーイベントのスケジュールを載せたPOETRY CALENDAR NYCというフリーペーパーがある、それを見て朗読を聴きに行った、と言う。AMERICAN BOOK JAM誌の副編集長佐藤由美子さんからも同じ話を聞いたことがあった。

 日本でも、あるいは東京でもやってみようか、ということになった。斉木博司が発行人、小森岳史とカワグチタケシが編集委員となり、友人知人のつてを頼りにスタッフを募った。当時我々が描いていたビジョンが3つあったと思う。①朗読イベントの情報インフラを整備する。②オープンマイク、詩のボクシング、ネット詩、思潮社や青土社から詩集を出版している詩人、歌人、俳人、小説家、エッセイスト、俳優や声優、アナウンサーの朗読、これらが互いを知り刺激し合う橋渡しをする。③朗読に興味になかった一般の人たちに朗読の存在と表現としての面白さを伝える。

 コンテンツはイベントスケジュールと特集記事一本のみ。スケジュールは有名無名関係なく開催日順に列挙する。特集記事の執筆者、インタビュイーはジャンルの偏りのないように配慮する。隔月で制作し、無料で1万部配布する。配布先はイベント会場だけでなく、都内を中心として映画館、書店、CDショップなど。

 2000年9月3日(日)ウエノ・ポエトリカン・ジャムの初回が開催される。野外音楽堂で1000人以上の観客を集めたかつてない規模の無料ポエトリーフェスだ。さいとういんこさんが主催した。この日に合わせて創刊する2000年9-10月号のために集まったスタッフは、前述の3名に加え、フリーペーパー編集経験を持つ小野知子さん、終刊まで制作進行統括を担った山下聡子さん、表紙の詩人ポートレートからDTPまでクリエイティブ面を支え続けた千田美幸さん。この3人は本当に有能だった。

 創刊号に掲載されたイベントは、2000年9月が19件、10月も19件だった。特集記事は僕と親交があったNY市ブルックリン在住の詩人シャロン・メズマーにニューヨークのポエトリーイベントのレポートを書いてもらい、僕が日本語に翻訳した。2000年7月末、制作作業の最中に34歳の詩人の訃報が届く。斉木が奥付に「本紙をMUDDY STONE AXEL(カオリンタウミ)に捧げる」というクレジットを追加した。

 イベント情報の収集は手間がかかる。主催者や出演者から持ち込まれるものだけではジャンルを横断できないので、現代詩手帖やユリイカのイベント欄、書店の店頭告知、ウェブサイトをくまなく検索し、主催者に連絡して不足情報を確認し掲載許可を取る。地道で地味だが、情報紙としてのクオリティを担保するためには絶対に欠かせない作業だ。それでもミスが出る。そのときは次号で謝罪する。

 印刷会社からHEARTLANDに納品されたペーパーを受け取り、各々の担当エリアに配布する。僕は銀座、汐留、台場エリアを担当していた。JR中央線を神田で山手線に乗り換え有楽町まで、映画館や新刊書店を数件回り、汐留のタワーレコードとブックファースト、ゆりかもめに乗り換えお台場へ。サブカルチャーとは無縁のキラキラした街だが、当初掲げたビジョンのうち「③朗読に興味になかった一般の人たちに朗読の存在と表現としての面白さを伝える。」のために、肩に食い込む重量に耐えた。

 A3四折り両面印刷で創刊した2年後の2002年9-10月号から、用紙を約1.5倍のサイズに拡大し、正方形の六折りに変更した。掲載するイベントの数が増えて当初の判型に収まり切らなくなったからだ。2002年9月の掲載イベント数は61件、10月は38件、2年間で約2.5倍に増えていた。

 POETRY CALENDAR TOKYOは2005年7-8月号をもって一旦休刊する。5年間で30号制作した。イベント主催者や出演者の認知は上がり、お声掛けいただくことも多くなった。「①朗読イベントの情報インフラを整備する。」はある程度達成できた。また各号とも特集記事のクオリティが非常に高く、無料媒体の域を超えていたと思う(アーカイヴが現在もこちらのリンクに掲載されているので、是非ご一読いただきたい。https://pct_web.tripod.com/topics_index.html)。

 しかしながら「②オープンマイク、詩のボクシング、ネット詩、思潮社や青土社から詩集を出版している詩人、歌人、俳人、小説家、エッセイスト、俳優や声優、アナウンサーの朗読、これらが互いを知り刺激し合う橋渡しをする。」と「③朗読に興味になかった一般の人たちに朗読の存在と表現としての面白さを伝える。」についてはどうか。ごく一部を除いて成果が上がっていない。コミュニティ間の連携はわずか。相変わらず朗読会の観客は同業者ばかりで、純粋な観客やレビュワーが育っていない。

 POETRY CALENDAR TOKYOのコンテンツはクールなものであったが、クールさ故に、イベントタイトル、カテゴリー、出演者名だけでは、そこで何が行われているか一般の読者に伝わらない。そこで、イベントカレンダーに写真と1行コメントを付加、ピックアップイベント、レビューに加え、イベントスペースや朗読CD紹介、朗読に関するリレーコラム、等のコンテンツを強化した。アスファルトに標識や横断歩道を加えた格好だ。紙名もTOKYO READING PRESSと改め、2006年2-3月号から新装再刊した。

 コンテンツが増えれば人手がかかる。2006年2-3月号再刊時の編集スタッフは13名に増えた。編集スタッフはもちろん、レビューやコラムの執筆者も、馬野ミキさんはじめ配布を手伝ってくれた方たちも、みなボランティアだった。全員に心から感謝している。

 TOKYO READING PRESSは1号制作し、2007年12月-2008年1月号で終了する。理由は、斉木が書いた最終号の編集後記の通りだ(※画像参照)。端的に言えば資金不足である。紙媒体は原材料費と印刷費がかかる。専従の営業担当者なしでは1万部×全42号=42万部のコストを回収するだけの広告収入を得ることができず、当初の編集委員3名(斉木、小森、カワグチ)が不足分を私費で折半していた。有料でもいいから続けてほしい、というありがたい声も複数いただいたが、数百円で数十人、数百人に販売しても、我々が掲げたビジョンを実現することはできない。

 また、ポエトリーリーディングのメインストリームが、オープンマイクからスラムに移行したことも個人的には影響が大きかった。僕が好む朗読イベントのあり方は、実力やネームバリューは一切関係なく誰でも決められた時間を自由に使えるオープンマイクのフラットさとワンマンショーの覚悟とクオリティなのだ。スラムで勝負して順位をつけるカルチャーにいまだ馴染めずにいる。

 詩は 表現を変えるなら 人間の魂 名づけがたい物質 必敗の歴史なのだ
 いかなる条件
 いかなる時と場合といえども
 詩は手段とはならぬ

 田村隆一の「西武園所感」(1965)のこの一節を変わらず信奉しているのだ。それはどの情報も、吉永小百合も究極Q太郎も同じフォントで、同等に並列する両紙のコンセプトと合致していた。

 一方でオンラインメディアの充実も進んだ。創刊間もない2002年頃には沢田英輔さんの「POECA!」が始まった。当初NIFTY-SERVEで運営していた片野晃司さんの「現代詩フォーラム」が独自ドメインに移ってコンテンツを強化するなかでイベント情報も充実させていった。2003~2004年頃にはSNSが登場する。mixiが画期的だったのは、ひとつのプラットフォームに多岐に亘る情報とそのレビューが存在し、常に更新されているところだった。そしてTOKYO READING PRESS休刊後、2010年頃からTwitterが普及し、ユーザーがフラットに発信し感応する環境が完全に整った。

 オンラインメディアは、ローコストでリアルタイム性が高いというメリットがあるが、検索しなければ当然ヒットしない。したがって朗読に興味のない層から見れば朗読イベントは存在していないのも同然だ。フリーペーパーなら、書店やCDショップや映画館で偶然目に触れ、手に取る可能性がある。その僅かな可能性に賭けて、結果的に(少なくともその分野に関しては)僅かなまま敗退したのがPOETRY CALENDAR TOKYOとTOKYO READING PRESSなのだと思う。

 コロナ禍を経て、ユーザー体験がリアルショップからオンライン中心に変化したことで、偶然の出会いはますます難しく貴重なものになってしまった。POETRY CALENDAR TOKYOやTOKYO READING PRESSが目ざしたアナログ媒体によるインフラ整備はその意味でも費用対効果が望めない。ひとりひとりがオンラインプラットフォームを活用して、いかに多くの潜在ユーザーに情報を届けるかが当面の課題と認識している。

2022年3月