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制作メモ:2024年9月8日 今年始まった「山本恭子+馬野ミキ」というデュオ活動で、荏原中延の26周年を迎えたスナック美浜にて初めて演奏した時に書き下ろしたものを微修正。


夕闇が広がり
赤い看板に火が灯る

間口の狭いやや急な階段を 見上げれば
街の音とは別の気配
時折 うた声も聴こえる

家に帰るその前に
家ですごした その日の仕上げに

いつもと同じコース
いつもとは違う道のり

心の中の 美しい浜辺求めて
一日の終わりにさまよい出る

二十五年の年月
どれだけの人が
階段をのぼって 降りて しただろう

扉をあけて 目に入るもの

赤いカウンター 赤い椅子
壁の鏡
氷の入ったグラス
スナック菓子
だれかのお土産 今日はお稲荷さんかタコ焼きか...

人は「愛がない」とかなしみ
愛すればこそ かなしみ
愛し合ったそばから
かなしみの種を育てる

かなしみの本質は
希望
望むことが叶わないことへの
あきらめきれない心

一人ひとりのかなしみの
もっと奥底にある
深いかなしみ

人の命は奪えても
かなしみを取り去ることはできない

ひとかけらの希望もない
と思われる時にも
かき集めて絞り出す

かなしむ人のいる限り
希望もまたあり続ける

一番の早起きは誰か
眠らないのは早起きと言えるだろうか

眠れない夜は
眠らないで
鳥の鳴くのを待つ

ある春の朝はホトトギスだった
明け方でなく夜中
ぽつりと鳴いた
トーキョートッキョキョカキョク
カラスもおかしな時間に鳴く
鳥も寝言を言うのかな

声の高い小鳥たちは
空の焼ける前
一羽が鳴いて
それに応える鳥がいて
たちまち賑やかになる

存在を伝え合い
一日のはじまりを讃え合う

食べもののありかを
家族を脅かす存在を伝え合う

歌いながら
愛を育む

一日の終わりにも
ひとしきり歌う
まだ残された
最後の光に向かって
体を休めるところへ落ち着くまで...

気配に満ちていた
夏から秋へ
音は空へ吸い込まれ
長い冬がはじまる

夏のあいだ
一日に3メートル伸びるつる草もある
冬になると
目に映る景色は変わらない
モズや冬の鳥だけが声を響かせる

霜が降り
雪が降り
吐く息は白く
手足はかじかむ
気をつけていても猫背になり
身体がこわばる

足元を見れば
土にマメ科の草がそろり
腕を伸ばし
顔を上げてみれば
すっかり葉を落とした

こぶしの枝先に
固いちいさな芽が膨らむ
水は氷の下でも凍る土の下でも
動き続け
命を育む

わかりやすさのかげに
真実が宿るように
春はすでに...

曇った空から
やや強い風が吹いて
隣の家のシャボン玉が
びゅーんと
飛んでいく
ベランダに干してる
バスタオルが
バタバタと
音がしている
温くも
冷たすぎることのない
ほどよい冷風が
タンクトップから出た
私の腕や体を、
的はずれにうらぶれて
熱い涙のたまった頭を、
ほどよく冷ます。
あぁ、自分には才能なんてないんだと
素直に受け止められるように出来るまで
このまま暫く
この風に吹かれていたい。

ミャンマー在のChanさんのインスタへの投稿が途絶えている
インスタで偶然彼女の投稿を見つけた
それは決して「詩を意図したもの」ではなく日々の記録なのであるが
日本語を勉強していたという彼女の言葉を「抒情詩の惑星」に引用させてもらえることをお願いして承諾してもらっていたー

火は形を変えながら
音や光、煙によって

じっと待てば
声がきこえる

その声は
胸のずっと奥のほうから





往年のアメリカ製SF映画に、「禁断の惑星」という一作があった。人類が宇宙へと進出した時代に、ある宇宙船が故障で、一つの惑星に漂着する。過去に栄えた大規模な文明の遺産が残るこの星に、もっと以前に漂着した探査船の生き残りの男と、その娘が住んでいた。
そうした設定で展開していく、SFミステリー的な作品である。美術的な面も含めて、僕がとても好きな作品である。
この映画の中に、人間の思念を実体化させる装置というのが登場する。そんな作品を記憶にとどめ、後に自分の作品に反映させた脚本家がおられた。テレビ放映されるアニメーションが「テレビ漫画」と呼ばれていた時代から、多数の作品に関わって来られた辻真先さんである。
...

何度か会っているとは思うが、記憶に残っているのは二度だけである。
一度は、ミキさんが『詩学』の連載を終了されたとき。連載終了を記念してのイベントだったか、
「東京で『詩学』に関係した詩人を集めてリーディングライブをやります。来ませんか」
と誘われ、当時連載陣のひとりとして名を連ねていたわたしも参加した。そのライブにchoriさんも来られていたのだ。ミキさんが連載なさっていたのが2004年から06年まで。choriさんは05年に「第一回詩学新人賞」で最優秀詩人賞を受賞されていた(クロラさんと二人同時受賞だった)。
...

詩誌「詩学」が設けた最優秀新人賞の第一回に(2005年)
ちょり君とクロラ君が同時受賞した
それはこの界隈では小さなニュースでもあった
クロラ君は2ちゃんねる詩・ポエム板出身の後輩
二人共若いイケメン王子様風でなおかつ名前が「ちょり」とか「クロラ」とかハンドルネーム風というか
自分が「詩学」に連載を持っていた頃、
ちょり君を新宿は思い出横丁の岐阜屋に連れて行ったことがあって大層喜んでいた
そこでちょり君の発行する小さな雑誌のインタビューを受けた
酒を飲みながら。
自分が「ミキ」ではなく「馬野ミキ」と名乗るようになり
一時期、対外的な狙いもあってスーツを着てたことがある
するとちょり君も「僕もスーツ着てきました」とあれはウエノポエトリカンジャム3の打ち上げであっただろうか
そういう可愛げがあった
...

私がインターネットに触れた2000年前後からchoriの名は知っていた。
なんだかネットの詩の界隈では有名で、ネットの詩の賞を掻っ攫っている若者だという。
裏千家のお坊ちゃんでネット外でも知られているらしい。
詩を読んでみたら、まあ若いわりには書けている方かな、くらいの印象しかなかった。
私は基本的に天邪鬼なので、名のある人間はコケにするし、イジってしまうクセがある。
彼も例外ではなく、いろんなところでおちょくっていた。
詩はヘタでも七光りがあれば評価されるんだねえ、とか、若いだけで持ち上げられてたいへんだ、とか、好き放題言っていた。
あとから聞くと当時10代だった彼はひどく傷ついていたらしい。ごめんなさい。
...

扇風機は枕元で一晩中回っているはずなのに、何かが風を遮る。
薄目をあけると誰かがしゃがみ込んで顔を覗き込んでいて、
半身寝返りを打つと畳の上にひょろりとした足が見える。
蓮の花の刺青で、誰だかすぐにわかった。
また目を閉じる。なんて夢だろう。

故ちょりと初めて会った日のことはぼんやりながら妙にはっきりと覚えている。あれはいつやったか忘れたけど、どっかの喫茶店?喫茶室?紅茶を飲む感じのスペースで開催された詩のワークショップだった。たしか森下朝子氏もいた。森下氏の「地元の花火大会の話」は、めちゃくちゃ笑えたので、いまだに面白い話かどうかの自分の中の物差しにしてるんやけど、もしかしたらこの日に聞いたのかもしれない。話が逸れたが、そこで初めて同志社の付属の制服姿で参加していた高校生のちょりと出会ったんである。詳細はわからないが、彼には、SPみたいなかっこいい女性が一人ついていて、話しかけにくい雰囲気があり、なんか知らんけどとてつもない大会社の御曹司なんかなあ?とか思ったりした。さて、作品発表の場面で、みんな自作の詩を朗読するんやけど...

UFOって見たことありますか?
僕は幽霊だの地縛霊だの守護霊だの、見たこと無いし、いるのかもしれないけどそういう類の存在とは無縁というか相手にすらされないと思っている

いるのかもしれないけど俺は用事は無いし、あっちだって相手を選ぶだろう

俺は低俗で脳に毒が回っている
幽霊がいたら俺にこう言うはずだ
「いや、あの、君じゃないから…」

高校二年生、オーストラリアへの修学旅行に行かせてもらった

九州への修学旅行組とオーストラリア組とで別れたのだが引率の教員を含め120人程度でオーストラリアに一週間滞在することになった

シドニーだとかキャンベラだとか行くのだが道中、週の真ん中あたりでど田舎の農場に泊まるという日があった
ほんと街灯も何も無い、柵すら見えない広大な農場に一泊する事になった

...

実は、この時代について政治的な視点から語ることは、とても難しいのである。政治的な視点からは、大きな転換期であり、きちんと理解された方が良い価値観のシフト交代が行われた時期でもあったのだ。
加藤泰監督の映画作品に「真田風雲録」という一作がある。僕は若い頃(1980年代)、池袋の文芸坐地下でこの映画を見た。(元々は、昭和の前半にサンカ小説で知られた作家三角寛氏が始めた映画館人生坐がその母体となっている。今の、ビルの一スペースにある映画館という形態になる以前は、文芸坐は独立した映画館であった。地上では洋画、地下では邦画が上映されていた。ほかに、ル・ピリエという小さなステージや、映画関係の書籍を販売する専門書店があったことも併記しておく。)...

畳12畳の
東京23区ギリ片隅のもう24区になりそうなこの部屋に
きみが置いていく
シャンプーやリンス
きれいなルビー色の石鹸や
ほとんどつけなくなったテレビ台の上の
玉虫色の種のじみたヘアピンたちが
領地を拡大するみたいに
少しずつ広がっていく
染み渡るように
侵攻する
どちらがロシア軍か
どちらがウクライナなのか
電気をうす暗くしてから決めよう
俺はきみを支配した後に
降参するから
ユーモアだと解釈して笑ってくれ