過去の記事

痛快である
まるで岡崎京子のコミックを読んだ後のような軽やさが埋まった詩集である
エッセイ的要素も含まれている
先日の東京文学フリマでご一緒になった彼女は見るからにキュートな女性だ
少しだけ人生を斜めに そして楽しい事を常に模索している感がある
彼女はポエトリーも魅力的だ
お逢いする迄は彼女の詩を読んでいた私は彼女の詩から連想する壊れた感を感じていたがお逢いした彼女は絶望という言葉を掌で転がし人生を楽しんでいる大人の女性だった
詩集絶望してろ、バーカ
このタイトルは彼女にしか作れないタイトルだ まさしくこの絶望してろ、バーカは彼女自身へのメッセージなのだと思う

柔らかくて湿り気のある赤ん坊の肌状の空間の薄いグレー。
空の成分について考える。

...

物事を進める上で、要に需要
というものがある。
とある作家は長年創作に打ち込んだが、
もう自分の作品に、
需要というものがなくなったと思い、
活動をやめていたらしい。
無論僕は作家ではないので、
そんなことはお構い無しにつれづれに散文を書き散らす。
久々にそのかたの文庫本を本屋で見てみたら、
沼の写真などが、
綺麗に写っていた。
暗く、葦の繁った黒い沼の写真に、
短文が添えてあった。
それを見た僕は、
この人の作品には、
まだまだ見るべき物があり、
決して見損なえないと思った。
写真って不思議ですね。
その時の心境を表現したり出来る。
分かりやすい。
たまたま僕の趣味じみた事も、
写真をスマホで撮る事と、
短文を書く事なので、
共感出来る部分がある。
もっと深い沼になりたい。

家族の誰も、こんな家の近くでパパイヤの木を育てた記憶がありません。誰かが窓から種を捨てたのかもしれません、それは私だったのかもしれません。

家にとても近かったので、ちょっと他のところに移すか処分するかも考えた。今はなぜそうしなかったのかさえ覚えてないです。

その後、私が抗議の写真を撮ったときは、美しい葉のあるこの小さなパパイヤの木はいつも抗議の仲間のように私と一緒にいてくれました。

この木の樹齢は昨年権力を握った軍事政権とちょうど同じです。
徐々に、国民の苦しみが増すにつれて、この木の成長を見るのが嫌いになりました。

...

それはそれは恐ろしいほどの快楽をもたらすのだそうだ

オランダ政府ですらハードとカテゴライズするような、攻撃性と多幸感を得れるのだというドラック

摂取後、非常に危険な精神状態だと推測出来る、完全に酩酊している


他人の不幸を想像し、性的興奮を得るような不愉快なそれ

「正義」

思考停止
思考停止と原理主義との類似点は無数にある
原理主義の本質は排除であり、議論の準備すらしない、自分達を疑わない、故に違法行為すらいとわない

「正義」

この消費社会においては大量破壊兵器も商品なのである、兵器、純然たる暴力、それは正義の名のもとに

「正義」

それが女性だった場合、ディルドを釘バットの様に振り回し、「これが文化人的殺人術、フェミニズム!」と社会的に追い込み、脳挫傷になるまで殴り続ける
もはや文化的解決の余地はない

...


僕はまったく雨嫌い。だから、雨が好きな人がいるということがてんで分からない雨が好き!って言ってる人を見ると蛙みたいに思います。人の気持ちが分からない、コミュニケーション不全なのかな?


現代詩とは何か。数えてないが、この連載でそう問い続けてもう20回近くになるだろう。ちょうど20回目かもしれない。最近はゆるゆると問の周りをまわるようなことをしているから、たまにはストレートに攻めてみる。

3
現代詩は、コミュニケーションと無関係。雨のことを好きだという人がいるなんてこと分からなくてもいいのである。雨が大好きな人は、雨嫌いは人の心を想像する必要がない。自分の世界を築くんだ。遠慮してはいけない。遠慮すると中途半端に陥って何の得もない。


...

数か月前に鳥取県在住の手皮(てび)さんという方からメールが来た

傘寿の老人であると前書きがある
鳥取の書店「汽水空港」のブログより、寺西さん、「抒情詩の惑星」へと辿り着いてくださり
寺西幹仁さんの「とりこ」が掲載されていてびっくりしたと、
読んでほしいものがあるので住所を教えてほしいと書いてあった

赤信号を見つける
それに向かってアクセルを踏み込む
人間の肉を轢く感触とともに交差点を走り抜ける
見開いていた目を閉じると、瞼の裏に太陽が見える
太陽の黒点の中で、膝を丸めた子供がiphone を握っている
その子供は、「とても暗いところで待っているよ」とツイートしている

A Iアイドルと呼ばれる方々が活躍を始めている昨今。一昨日5月29日には、週刊プレイボーイからA Iアイドル、"さつきあい"さんの写真集が発売された。この手のアイドルは女性だけに留まらず、男性アイドルも登場しているというから、時はすでに新時代に突入しているのかもしれない。もうすでにいるかもしれないが、彼、彼女らの中にはもろ肌を見せる方も出てくるだろうし、サブスクライブで彼らとラインや電話ができる日もくるだろう。たとえば朝には、「おはよう! 今日は夕方から雨みたいだから、忘れずに傘を持っていってね。それと、線路内への人立ち入りの影響で、東西線に10分から15分の遅れが発生してるみたい。線路への立ち入りなんて、もしかして痴漢が見つかっちゃったのかな…?...

けんごさん、こんにちは。秋月祐一です。

ぼくにも自他ともに認める代表作のようなものがあります。
たとえば、

地下街で迷子になつたカピバラにフルーツ牛乳おごつてやらう

「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)

この巻尺ぜんぶ伸ばしてみようよと深夜の路上に連れてかれてく

市場まで粒マスタードを買ひにゆく、はずが途中で飲んぢやつてるの

といった歌ですが、
これらを詠むときに、長時間をかけて、苦労して詠んだかというと、全然そんなことはなくて、どれも五分か十分くらいで、すらすらっと書いたような気がするんですよ。

...

前回提出した歌にご指摘ご推敲ありがとうございました!

連作の時の歌達を「みごと!」とか、
言われちゃってはずかしーっすね。

でも自分でわかっているんです!
僕の短歌はまだまだです!
僕の歌はひとつの時間、ひとつの場所を
現していますが
僕がもっとも詠んでみたい
一瞬の気持ち、

思わぬサプライズに
えっ!
うわっ!
やった!
とか、
料理してて包丁落とした時に感じる、寿命縮む感じとか

プラスでもマイナスでもどちらでも良いのですがそんな感じの
頭で考える前に脳みそがふるえるような

さまざまな理屈が無い瞬間
そんな、さっきまでの気持ちが吹っ飛んでまったく違う気持ちに変わるような

「一首の短歌を読んだだけでちょっとだけ世界が変わって見える」

大阿久佳乃『じたばたするもの』(サウダージブックス、2023年)はアメリカ文学を中心としたエッセイ集だ。小説ばかりか現代詩が取り上げられていることが珍しい。詩の読みを散文で書く人は少ないから、貴重な仕事である。セアドー・レトキー、W.C.ウィリアムズ、フランク・オハラ、エリザベス・ビショップ、ガードルード・スタイン、金関寿夫『アメリカ・インディアンの詩』、アドリエンヌ・リッチが取り上げられ、肩肘張らず、淡々と読んで考える姿勢に好感が持てる。
...


その屋根には五メートルを越すアンテナが取り付けられていて
既にほうぼうが崩れている建物と濃淡を示すように丁寧に取り付けられた部品が
屹立するのを支えていた
自立した通信手段を持ち
数百キロ先に居る相手と言葉を交わす
伝えたいという想い 聴きたいという想い

大昔ろくに働きもせず、
お金がなくなったから、
夜な夜なお変人のように
暗い夜道をあるいていた。
どこか誰からも知られないところへ
逃げたくなったからだ。
独り暮らしの障害になるような、
あいつらがいたからだ。
何もかもが嫌で仕方なかった。
知らない夜道をあるいていた。
どうしたもんか、退屈だし、
近所の嫌いな知り合いが訪ねてくるし、
大量服薬をしては、鏡に映った顔が、
目尻がつり上がっちゃって、
人間って希死念慮があると、
こうも顔つきに出るのか、と思った。
鬱が酷くて。
夜中は近所のラーメン屋へ、
お金もないのに食べに行って
浪費していた。
目が覚めたら病院のベッドで寝ていた。
起きて、看護師さんに訊いたら、
ラーメン屋の前で倒れていたんだって。
そんなにラーメンが食べたかったのか

もう始まってしまうのかと
エアコンの掃除をする
もう終わってしまうのかと
服の整理をする

宿題は無いから
自分で作ることもあるし
昼間の外出はつらいから
空の青さをあまり知らない

誰かの撮影した夏で満たされて
よく冷えたビールを飲む
刷り込まれた記憶に気づかずに
満喫をしている

言い訳に詩を書いてます
よく詩を書くことによって感動させられたらと耳にするけれど私にはそんな気持ちはこれっぽっちもないです。
私は私だけに拘っているからかも、いつか言葉に殺されるかもしれないぞと恐れながら
詩を書いています。
私はただ書きたくて仕方ありません。書いている時だけが心が揺り動かされます。
詩は辻褄合わせや言い訳に似ています。
生きていると辛い事や悲しい虚しい事が沢山です。
思い通りにならなかったり世間から取り残されたりそんな気持ちにうんざりしたり。
私の人生は常に負けっぱなしです。
なので詩を書いています。
まず私は新潟の五泉市という田舎町に住んでいます。最寄駅は無人駅です。通勤通学時間以外は本数は僅かです。1時間に1本あればいいくらいです。ホームの前は田園風景で
...

二〇二三年一月、世界の空気を破るように橘上と山田亮太と劇作家の松村翔子による四冊セットが「いぬのせなか座叢書5」として登場してきた。内訳は、橘の二〇一八年の即興朗読ライブを橘自身が文字化した一冊、山田による反応連動詩一冊、松村による反応戯曲一冊、橘の連動詩一冊である。テキストの準備なしで発音したライブを、橘は記録から文字に落とし込み、山田と松村はその体験を内在化して作品をまとめ、橘自身も別詩を書いた。飛び跳ねる声と言葉を受け止め、時間空間身体の制約を越えて、山田と松村と橘は断続的に続行する心的ライブを取り出しながら作品を作った。感覚の時間はリニアではないので逆戻りも追体験も可能だ。共通するフレーズや連想など冊子同士のコレスポンダンスもあるが、それぞれが独立した四冊である。拙稿では山田と...

気持ちを言葉で言ってくれなきゃわからない
きもちをことばでいってくれなきゃわからない
きもち ことば いって
きもち ことば いって
きもちを言葉で言ってくれなきゃわからない
きいもちいうをことばあでえいってくれなきゃあ

なに言ってんのかわからない

なにも言わなくてもわかれよ

わかるでしょ
わかれ

分かれ

気持ちを言葉で言ってくれなきゃわからない

つまんねぇセリフ、吐きやがって。
音楽でも聴いてろよ、本返せ。
扇風機じゃぬるいだろ。
火の鳥みたいな生命
感じとけ。
エロかったら、あといっかいくらいやるから。
アイス買ってきてくれる
いいねぇ、やるじゃん。

そうとこ、そういうとこだよ。レシート捨てといてな。