過去の記事

電話の繋がらないコールガール、処女膜はなにも捕捉しない、ガリガリの力士と三段腹のマラソンランナー、サンマの煌めきとダボハゼの貪欲さはペーソスを誘う、無免許のソープ嬢と自転車に乗れないピンサロ嬢、綺麗な大便とテロリズム、絶対に外さないタイガーマスク、黄金色の小便とリアルゴールド、老婆のパンチラ、感じない鋭い尿意、硬いゼリー、気に入らない好物、タイドプールに住む深海魚、泣きながら老爺を刺し続ける幼児、誕生日に自殺する牛、詐欺の天使、サギの仮面を被ったインコ、電車を乗り継いで江戸時代へ行く、令和のバス停で昭和行きのバスを待つ、交通事故現場でSNSに接続しながらマックを喰らう、水中で笑う赤子、暑い暑い死にそうだと鳴いている蝉たちと虫かごを振り回すトウモロコシの群れ、投げやりな弁護士と緻密な性格...

4度
目が覚めたので
4回目はパソコンをひらいてツイッターをみて彼氏のつぶやきをお気に入りに入れたら電話が来た

彼氏がサイレンとモードにし忘れたらしく「お気に入りに入れたよ通知」が いってしまっておこしてしまったようだ
失敗
午前5時半頃だったのでおきていてもいいような時間だったのでまあよかった

そのままぼやぼやと眠たい目でウォーキングにいく
涼しい
が蝉が活発に鳴いている
昨日はわりと寝付く頃は熱帯夜だったが今は寒いくらいだった
今日のお天気はなんだろう

昨日は散髪にいってきてボーイッシュなくらいばっさりと短い
鏡を見るとき一瞬ドキッとする
誰だろうこの人は

いよいよ今週末にイベントがやってきた
人は来るのであろうか?
こなさそう
閑散とした中ひびくポエム達
まあ
なればなれよ

...

一年前「抒情詩の惑星」をはじめる頃、自分は万年床にてほぼ一日ラジオを聴いているような生活であった
大島健夫くんが企画してくれた「抒情詩の惑星」創刊記念朗読会でも話したが
「抒情詩」という単語は、古溝真一郎くんが自分の詩集「キム」を紀伊国屋書店のフェアで配布された冊子にて評したくれたところから着想を得、このホームページの作成に至った
送られてくる原稿を、自分に届いた一通の手紙として読んだ
それはちょっと、贅沢な時間だったのだと思う
ほいでも掲載を見送った方や作品もあって
しかしそれらは今もデスクトップの抒情詩の惑星フォルダに収められていて
時々想う

ご注文が集中しています
一緒にツラい恋愛を乗り越えてきた彼女は付属しておりません
そうか
そうだよね
今日も飲みすぎよう
飲み屋の君は、今日、千度目の
追加ドリンクオーダーいただきました
を言う
トレイで運ぶグラスのドリンクたちを少しずつこぼす
つんのめって、何を拾う?
至上の時ならいいのにね
今日も飲み屋のテレビは
バレーボール女子日本代表
吉沢選手は相手からのサーブを待つ間
よく鼻を手でこすっていて
それにバリエーションがあって可愛い
杉山選手は常に焦点の合わない目をしているが
ブロックが決まったときに誰よりも大口を開けて喜び可愛い
常に冷静沈着な高橋選手は
相手のマッチポイントでも淡々とスパイクを決め
逆転したときに屈託のない笑顔だった
可愛い
そして大友選手
サーブを打つ前に常に神経質に床にボールをバウンドさせる
...

そう思った、書きたいとか書くつもりもないとか、そういうのと別のところがソワソワしていた
このフワッって感じは説明が難しいんだけど、
なんか突然バーンってきて
高揚する
自分の中身と外のなんかがくっついてドッカーンってなって
爆発してキラキラする
もー書きたい、いま書きたい、そんな感じ

わたしはいつもあなたに、わたしはアジアゴールデンキャットを飼っているのだと言うのですが
ほんとうはわたしはアジアゴールデンキャットを飼ってはいないのです
うしろめたい気持ちがわたしの奥底の、かわいらしい取っ手のついた白いちいさな陶器の花瓶からこぼれそうになると
わたしはあなたにあやまる手紙を書き始めます
ゆるしてください
わたしはアジアゴールデンキャットを飼っているというのは、あなたの気を引きたいあまりに話を盛っていました
わたしがほんとうに飼っているのは、ボルチモアムクドリモドキなのです、と
しかしわたしはやはりボルチモアムクドリモドキも飼ってはいないし、実はそれがどんな鳥かも知りませんので
良心の呵責に耐えられなくなり、わたしの手紙は、途中からフロリダの夏の素晴らしさをたたえる手紙に変ってしまうのです
...

旱空の下で命の限り蝉が鳴き続けてる...

あの日、終電逃してなかったら、マクドナルドが現在のように24時間営業だったら、下北沢駅に南口広場がなかったら、深夜、ヤケクソになって歌ってなかったら、当時あった立ち飲み屋で働いてた北海道の夕張から来た謎の男に声掛けられてなければ、翌夜の初ライブとか正式に表現活動始めてなかったかも知れない。

10月の太陽は日に日に帰路を急いでいて、気付けば西陽がアスファルトを、店々の軒先を、行き交う人々の頬をあかく照らしていた。どこもかしこもまるきり血まみれみたいだと私は思った。吐き気がするほど凄惨で、目がくらむほど生々しく光っていた。

みんな、私がそうであるように周りの福島人を見て、これはだめだ、だめな奴らだ。と、自分の駄目さ加減を棚に置いて、私のようになにもしていない口実にしていないか?とか考える。
田舎なんてそんなもんさ。とか言う奴は圧倒的に正しい。
だが、私はそういう正しさが嫌いだ。
福島県人には負け犬根性がこびりついている。と知的な福島県人が言う。それはそうなのだか、間違っている点がある。
負け犬根性ではなく、福島の民は既にむかしっから単に負け犬なのだ。

え、それって何かに似ていないか?

まるで日本の民衆に似ているね。

私のような田舎の庶民には難しいことは解りません。
この言葉の裏には自分こそ庶民を代表しているという傲慢さと権力権威への盲従と変化へのあきらめと恐怖がある。
都会だと
興味ないしとか関係ねえし
に変わるのだろうか。

...

言葉というものは、与えられたときからすでに他者が作成して他者が使用している、他人の道具である。しかし、文学というのは、特に詩は、その他人の道具である言葉をできるだけ自分のものとして自分化する、という矛盾する作業を行なうものだ。自分らしい詩を作るためには、他者の眼差し、他者の価値観、他者の文脈に迎合しないでどこまで突き進めるか、にかかってくる。例えると、自分という"ざる"で、他人の使用する水をすくうような、できっこないことだ。"ざる"ですくいあげたわずかな水しか、自分のものにはならない。しかし、詩人はそのわずかな1滴を求めて、"ざる"で水をすくい続けるのだ。
...

早口で畳みかけるようなプライドと戦っているキミの後ろ姿を僕は見ないようにしている

机に何度も頭を打ち付ける行為に憧れていざやってみるとイタイだけで無効だった経験があるとかないとか

とある図書館にある本を取るためのハシゴってスカート覗く道具かなって、背伸びして交差して本取ってくれて、興奮してびっくりして思わず声出して、「コラっ図書館だぞっし・ず・か・にっ。」って囁き声で怒られたりなんかして

策にしてやられるもの己の函谷関は超えれん
桃園の誓いっておっぱぷ祭りだったんじゃねー

にゃにゅにょで喋ってくらさいなの☆らす

はぁ 。

内科内科内科内科内科内科内科内科内科内科内科内科内科受診耳鼻咽喉科のテトリス
齢40から急にレベル上がるんっすよね
...

ポエトリーシーンの最前線からしりぞいて12年になる。東日本大震災の直前、2010年の11月に仕事の都合で故郷・静岡へ戻って以降、詩の活動では沈滞してしまった。コロナ禍を受けて静岡県詩人会に入会してみたが、本格的な復活には程遠い。そんな有様で記憶も曖昧だが、敢えて文章を起こしてみた。特に年号や人名など、相違があれば遠慮なくご指摘を頂きたい。
第一回のウエノ・ポエトリカン・ジャムが2000年か、2001年だったと思う。(えひめ丸の衝突事故と同じ頃だ)それまではどっちかと言えば現代詩寄りの詩人だった私は、ニフティ・サーブ上での活動から徐々に幅を広げ、その頃からポエケット(詩誌即売会)主催のヤリタミサコさんや色々な詩人たちとの出会いを経てBen's...