過去の記事

モリマサ公さんの詩集みると自分が1人で絶望しながら生きていた20代後半を思い出す。ジェネレーションX、バブルが終わり、残りカスをすいながら氷河期を耐えた、大半の負け犬達の1人だった時代。誰かを疎み誰かのせいにして煌びやかな世界を夢見たあの時代。断片的な絶望の淵に腰掛けて朝まで騒いでいたセンター街や歌舞伎町も今はもう無い。それでも立ちすくむ止まれの標識を蹴り上げ、カラスが突く黒いゴミ袋を蹴散らして帰宅してもカメラ録画もネット垂れ込みも炎上もなく、ただ一緒に帰る俺たちと私たちが発したバーカだけで世の中の規則を確認していたあの時代を思い出す。

俺が好きな詩は虹、ベルリン、タイムマシーンが特に好きかな。
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家なき子

たとえれば我の空耳サンロードみをほろぼしてのちのこころの

宗教が必要になり来る夜明けおりたつ鳥はカラスだけだね

妹が走ったのはドラッグで冴えて苦しむ者すらいない

輪郭が流動してるウチがわももれてたゆたう横断歩道

右左脳がちょっとずれてる劇場であたし蟻の巣カウントダウン

姉はナウ病気になって障害者手帳を持った名無しの試合

家はもうとられてしまいアゲハ蝶飛んでた庭木ただのぼうぼう

キャバクラで姉が働き脳ふやけどんな明日も来ないで欲しい

ガランドウ誰も帰らぬ家の中落ちているのはコアラの人形

家はもうヤクザにとられアゲハ蝶飛んでた庭木ただのぼうぼう

宵闇の記憶上書きされていく父母はばらばら最終回へ

カムアウト山が動けば這い出して母に秘密を全部話そう

姉はもう戻らぬ場所になったこと誰に話せば良いかわからず




あの

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モリマサ公氏の詩集『絶望していろ、バーカ』は頼もしい存在だ。そして優しい。中でも詩集の題になっている「絶望していろ、バーカ」という作品は優しい。

「必要以上に絶望すること」によってねつ造されていく「傷」の存在。とっても安全な痛み。

「絶望していろ、バーカ」

思春期は必要以上に傷ついてしまうものだ。そこへ「絶望していろ、バーカ」と言い放つ。これは決してバカにしている訳ではなく、そうやって絶望してろ(絶望しててもいいんだよ)というニュアンスだろう。絶望している時に「絶望しないで」と言われるより「絶望しててもいいんだよ」と言われる方がよっぽど救われる。

「レター」は

今泣いとける奴らは泣いておけ。
今泣いといても許される奴らは泣け。


いくらでもさいごまでちゃんと泣け。

こう言い切ってくれる。
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数年前、モリマサ公が「絶望していろ、バーカ」という詩を朗読するのを聞いた。その瞬間、自分も同じフレーズを叫びたい思いが湧いてきて、詩の最後の「絶望していろ、バーカ」は一緒に声を出した。そして、誰に向かって投げつけた言葉なのだろうか、自分も含まれるのだよな、と、モリマサ公の朗読を聞いた後に少し考えた。モリマサ公の世界観は徹底しているな、と感じながら。
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痛快である
まるで岡崎京子のコミックを読んだ後のような軽やさが埋まった詩集である
エッセイ的要素も含まれている
先日の東京文学フリマでご一緒になった彼女は見るからにキュートな女性だ
少しだけ人生を斜めに そして楽しい事を常に模索している感がある
彼女はポエトリーも魅力的だ
お逢いする迄は彼女の詩を読んでいた私は彼女の詩から連想する壊れた感を感じていたがお逢いした彼女は絶望という言葉を掌で転がし人生を楽しんでいる大人の女性だった
詩集絶望してろ、バーカ
このタイトルは彼女にしか作れないタイトルだ まさしくこの絶望してろ、バーカは彼女自身へのメッセージなのだと思う

柔らかくて湿り気のある赤ん坊の肌状の空間の薄いグレー。
空の成分について考える。

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物事を進める上で、要に需要
というものがある。
とある作家は長年創作に打ち込んだが、
もう自分の作品に、
需要というものがなくなったと思い、
活動をやめていたらしい。
無論僕は作家ではないので、
そんなことはお構い無しにつれづれに散文を書き散らす。
久々にそのかたの文庫本を本屋で見てみたら、
沼の写真などが、
綺麗に写っていた。
暗く、葦の繁った黒い沼の写真に、
短文が添えてあった。
それを見た僕は、
この人の作品には、
まだまだ見るべき物があり、
決して見損なえないと思った。
写真って不思議ですね。
その時の心境を表現したり出来る。
分かりやすい。
たまたま僕の趣味じみた事も、
写真をスマホで撮る事と、
短文を書く事なので、
共感出来る部分がある。
もっと深い沼になりたい。

家族の誰も、こんな家の近くでパパイヤの木を育てた記憶がありません。誰かが窓から種を捨てたのかもしれません、それは私だったのかもしれません。

家にとても近かったので、ちょっと他のところに移すか処分するかも考えた。今はなぜそうしなかったのかさえ覚えてないです。

その後、私が抗議の写真を撮ったときは、美しい葉のあるこの小さなパパイヤの木はいつも抗議の仲間のように私と一緒にいてくれました。

この木の樹齢は昨年権力を握った軍事政権とちょうど同じです。
徐々に、国民の苦しみが増すにつれて、この木の成長を見るのが嫌いになりました。

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それはそれは恐ろしいほどの快楽をもたらすのだそうだ

オランダ政府ですらハードとカテゴライズするような、攻撃性と多幸感を得れるのだというドラック

摂取後、非常に危険な精神状態だと推測出来る、完全に酩酊している


他人の不幸を想像し、性的興奮を得るような不愉快なそれ

「正義」

思考停止
思考停止と原理主義との類似点は無数にある
原理主義の本質は排除であり、議論の準備すらしない、自分達を疑わない、故に違法行為すらいとわない

「正義」

この消費社会においては大量破壊兵器も商品なのである、兵器、純然たる暴力、それは正義の名のもとに

「正義」

それが女性だった場合、ディルドを釘バットの様に振り回し、「これが文化人的殺人術、フェミニズム!」と社会的に追い込み、脳挫傷になるまで殴り続ける
もはや文化的解決の余地はない

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僕はまったく雨嫌い。だから、雨が好きな人がいるということがてんで分からない雨が好き!って言ってる人を見ると蛙みたいに思います。人の気持ちが分からない、コミュニケーション不全なのかな?


現代詩とは何か。数えてないが、この連載でそう問い続けてもう20回近くになるだろう。ちょうど20回目かもしれない。最近はゆるゆると問の周りをまわるようなことをしているから、たまにはストレートに攻めてみる。

3
現代詩は、コミュニケーションと無関係。雨のことを好きだという人がいるなんてこと分からなくてもいいのである。雨が大好きな人は、雨嫌いは人の心を想像する必要がない。自分の世界を築くんだ。遠慮してはいけない。遠慮すると中途半端に陥って何の得もない。


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数か月前に鳥取県在住の手皮(てび)さんという方からメールが来た

傘寿の老人であると前書きがある
鳥取の書店「汽水空港」のブログより、寺西さん、「抒情詩の惑星」へと辿り着いてくださり
寺西幹仁さんの「とりこ」が掲載されていてびっくりしたと、
読んでほしいものがあるので住所を教えてほしいと書いてあった

赤信号を見つける
それに向かってアクセルを踏み込む
人間の肉を轢く感触とともに交差点を走り抜ける
見開いていた目を閉じると、瞼の裏に太陽が見える
太陽の黒点の中で、膝を丸めた子供がiphone を握っている
その子供は、「とても暗いところで待っているよ」とツイートしている

A Iアイドルと呼ばれる方々が活躍を始めている昨今。一昨日5月29日には、週刊プレイボーイからA Iアイドル、"さつきあい"さんの写真集が発売された。この手のアイドルは女性だけに留まらず、男性アイドルも登場しているというから、時はすでに新時代に突入しているのかもしれない。もうすでにいるかもしれないが、彼、彼女らの中にはもろ肌を見せる方も出てくるだろうし、サブスクライブで彼らとラインや電話ができる日もくるだろう。たとえば朝には、「おはよう! 今日は夕方から雨みたいだから、忘れずに傘を持っていってね。それと、線路内への人立ち入りの影響で、東西線に10分から15分の遅れが発生してるみたい。線路への立ち入りなんて、もしかして痴漢が見つかっちゃったのかな…?...

けんごさん、こんにちは。秋月祐一です。

ぼくにも自他ともに認める代表作のようなものがあります。
たとえば、

地下街で迷子になつたカピバラにフルーツ牛乳おごつてやらう

「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)

この巻尺ぜんぶ伸ばしてみようよと深夜の路上に連れてかれてく

市場まで粒マスタードを買ひにゆく、はずが途中で飲んぢやつてるの

といった歌ですが、
これらを詠むときに、長時間をかけて、苦労して詠んだかというと、全然そんなことはなくて、どれも五分か十分くらいで、すらすらっと書いたような気がするんですよ。

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前回提出した歌にご指摘ご推敲ありがとうございました!

連作の時の歌達を「みごと!」とか、
言われちゃってはずかしーっすね。

でも自分でわかっているんです!
僕の短歌はまだまだです!
僕の歌はひとつの時間、ひとつの場所を
現していますが
僕がもっとも詠んでみたい
一瞬の気持ち、

思わぬサプライズに
えっ!
うわっ!
やった!
とか、
料理してて包丁落とした時に感じる、寿命縮む感じとか

プラスでもマイナスでもどちらでも良いのですがそんな感じの
頭で考える前に脳みそがふるえるような

さまざまな理屈が無い瞬間
そんな、さっきまでの気持ちが吹っ飛んでまったく違う気持ちに変わるような

「一首の短歌を読んだだけでちょっとだけ世界が変わって見える」

大阿久佳乃『じたばたするもの』(サウダージブックス、2023年)はアメリカ文学を中心としたエッセイ集だ。小説ばかりか現代詩が取り上げられていることが珍しい。詩の読みを散文で書く人は少ないから、貴重な仕事である。セアドー・レトキー、W.C.ウィリアムズ、フランク・オハラ、エリザベス・ビショップ、ガードルード・スタイン、金関寿夫『アメリカ・インディアンの詩』、アドリエンヌ・リッチが取り上げられ、肩肘張らず、淡々と読んで考える姿勢に好感が持てる。
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その屋根には五メートルを越すアンテナが取り付けられていて
既にほうぼうが崩れている建物と濃淡を示すように丁寧に取り付けられた部品が
屹立するのを支えていた
自立した通信手段を持ち
数百キロ先に居る相手と言葉を交わす
伝えたいという想い 聴きたいという想い

大昔ろくに働きもせず、
お金がなくなったから、
夜な夜なお変人のように
暗い夜道をあるいていた。
どこか誰からも知られないところへ
逃げたくなったからだ。
独り暮らしの障害になるような、
あいつらがいたからだ。
何もかもが嫌で仕方なかった。
知らない夜道をあるいていた。
どうしたもんか、退屈だし、
近所の嫌いな知り合いが訪ねてくるし、
大量服薬をしては、鏡に映った顔が、
目尻がつり上がっちゃって、
人間って希死念慮があると、
こうも顔つきに出るのか、と思った。
鬱が酷くて。
夜中は近所のラーメン屋へ、
お金もないのに食べに行って
浪費していた。
目が覚めたら病院のベッドで寝ていた。
起きて、看護師さんに訊いたら、
ラーメン屋の前で倒れていたんだって。
そんなにラーメンが食べたかったのか