「思い出」 多嘉喜
This is a 格闘、とはまた違う地下活動
町の悪童が見向きもしない我々のアクト
It's like that yo, と済ませたくもなるけど、
それじゃあ終われない、から今日もいざ参上
This is a 格闘、とはまた違う地下活動
町の悪童が見向きもしない我々のアクト
It's like that yo, と済ませたくもなるけど、
それじゃあ終われない、から今日もいざ参上
写真は僕の通院している病院の、
キレイな病棟です。
建物の中も快適で、
キレイな造りになっています。
何度も作り替える前迄は
木造の暖房もきかないところでした。
あのてまえの2階のかどの部屋に
亡霊のように立って
表を見ていました。
その時は自己抑制のコントロールの欠如と妄想で
入院しました。
山に向かってバスで駅から3つ目で
着きます。
僕が通院していなかった2年間のうちに
建物もデイケアも
ガラッと変わっていました。
敷地内全面禁煙なのを除いては、
気楽な病院です。
職員さんがみんなマジメです。
話は少し逸れる。
1980年代の半ば、二人の男がパフォーマンス・ユニットを立ち上げた。一人はインスタレーション作家を目指していて、もう一人は作曲家を目指していた。インスタレーション作家志望の彼は、当時全盛期であったディスコのオブジェ作成などをすることはあったが、基本的に二人には何の後ろ盾もない。
二人は、あれこれの手だてで舞台を実現した。最初のときは、美術関係の友人と共同で会場を借り、次には彼らだけの単独の舞台を。前者は当然、それぞれの参加者の友人が訪れ、それなりの観客数であった。二度目は、単独の舞台ということで客席にはまばらな人影しかなかった。しかし、終演後の二人に一人の男が名刺を差し出す。
...
体をリラックスさせる
落ち着いて冷静でいる
不安はない
エネルギッシュである
積極的である
とても楽しく思う
無理に努力はしない
自然にプレーする
自身満々である
注意力がするどい
自己コントロールできる
集中している
ただいまー
駐車場や
駐車場を使って
目線の練習をしました
バックサイドがやっとみえました
今日もたのしくがんばろう
全力でケガにきをつけてね
★ひさえぼんが72うしろあしをひきつけるといい
36の要領でと教えてくれて
そうやったらできそうになって
けっこういいかんじになって
3回くらい立てた
★社長に5の顔の向きが上を向いていて
きのうよりよくなったといってくれた
7をいしきしていたので上を向けたのだと思う
板はフラットスピンになってしまうので
けんごさん、こんにちは。秋月祐一です。
【原作】
色鉛筆はじめて使ったその時に世界が全部描けると思った
【改作案】
色鉛筆のはじめて使う色たちよこれで世界が全部描けると
この改作案をお読みになられての、けんごさんのご感想を
要約させていただくと、
原作では「色鉛筆」と、それを使って感動している「私」の
2つの登場人物がいるけれども、
改作案では、色鉛筆と言う「物」を主人公にする事で、
「色鉛筆のはじめて使う色たちよ」と色鉛筆に語りかける人の
「うわっ!やった!」という気持ちに読む人の目がいく。
という部分を興味深く拝読しました。
短歌は31音の短い詩型なので、
感動の一点突破に向いているんですよ。
(もちろん、そうではない短歌もありますが)
「色鉛筆のはじめて使う色たちよ」と色鉛筆を前面に出し、
...
御推敲ありがとうございます。まずは原作と推敲案を並べさせて頂きます。
【原作】
色鉛筆はじめて使ったその時に世界が全部描けると思った
【推敲案】
色鉛筆のはじめて使う色たちよこれで世界が全部描けると
まず一読目は
「描けると」
で終わる事で短歌らしいリズムが出た!
と感じました。
秋月さんが推敲していく過程を書いてくれているので、それについて
どう感じたかを書かせてもらおうと思います。
はじめに秋月さんが原作から
「その時に」「思った」
を外された時に、
そう感じた人が歌の中から消えたなと感じました。
さて、どうなんだろうと思ったのが初めの印象でした
そして次に
「使った」を「使う色たちよ」
となり、ここで
ああ!なるほどな!
と感じました。
原作では「色鉛筆」を使って感動している「私」
の2つの登場人物がいるんだなと思いました。
...
3年ほど前から「キャッチボーラー」を名乗り河川敷などでキャッチボールをしている。キャッチボーラーといっても何か資格が必要だったり、明確な定義があるわけではない。
野球を観ることは昔から好きだが、チームに所属し野球を習った経験はないので、キャッチボールに関してはど素人。ただ「キャッチボーラー」という響きが好きで使っている。
活動は月数回。社会に馴染めない同世代の男3人、多摩川の河川敷に集まってやることが多い。
...
本来小さな世界であるのに、取り繕った多数派に属する事実で自らの世界を大きく見せようとする。一義的ではないはずが、その世界では一義的に社交性があるとされる住人たちから「お前には社交性がない」とされ、施すように「A,Bどちらかのグループに入れてやる」と言われる。
孤独であるとされること自体の自身の痛みに目を向けるより、愛する人が私の置かれた状況を見つけた時の痛みを想った。それ程の真の強さと優しさを持つ人が、この世界を照らさないはずがなかった。どうしたって太陽は沈むが、熱を受けた子どもたちが次から次に昇るのを、誰にも止められなかった。優しさその光は、入り組んだ建造物の奥の奥、隅々にまで届く光。言葉は手段、こう生きるという目的と合わさることで最深部まで届き得るひたむきな光。
...
「とりこ」
小学生のころ
毎週日曜日野球をした
広場に集まったこどもが奇数のとき
一番使えないこどもを残しグッパーでチーム分けをする
チームが分かれると代表が出てじゃんけんをする
負けたほうが残ったこどもをチームに引き取る
一番使えないこどもをとりこと言った
私はとりこだった
その日も私はチームの代表にはさまれ
じゃんけんのまんなかに立っていた
だれかが あれ という顔をした
振り向くと祖父が立っていた
そのとき祖父がどんな顔をしていたか憶えていない
恥ずかしさと情けなさで脳みそがいっぱいになった
私がとりこであると家族には知られたくなかった
私は家に帰れなかった
丈の高い草の茂った河原があって
私はそこに身をひそめた
夜になると湿り気が尻を冷やす
今も私はその河原にかくれている
明日こそ迎えにいかなくては
そう考えている
まだスマートフォンやインターネットがなかった頃
多分俺は二十歳ちょい
葛西はおない年だった
東中野の自分のアパートには当時、新宿の路上の歌歌いや
行き場がなく新宿をうろうろしていた奴らのちょっとした溜まり場になってた
あまりにも溜まり過ぎて落ち着いて寝れない為
俺はブロン錠を胃の中に放り込み、夏なんかは公園のベンチで寝てたりした
その東中野の部屋の中に葛西もいた
そしてこの頃はまだまともな精神状態を保っていた
俺たちは
夜になるとコマ前(現:歌舞伎町の東横前広場)にでかけ、葛西のサックスと俺はスキャットで合わせ現金収入を得
一般的な仕事をすることなく、生活をしていた
俺と新宿で分かれ、葛西はBlueNoteに寄ることもあった
東中野の愉快な仲間たちは、古紙回収の日に出された古本をかき集め一日に万単位で稼いだり
...
何から話してよいのやら…
馬野ミキという詩人がいる。
あれは高円寺だったのだろうか?
彼の詩の朗読を聴いていた時、
「カサイは、生活保護費が下がったと嘆き、俺に〜」
カサイ?ふいに鼻をつく臭い
僕は驚き、彼の朗読を遮って質問した。
「カサイってあのサックス吹いてたカサイさん?」
「そうだよ」
どういうことなんだ?
始めましょう、少々長くなりますがお付き合い下さい。
平成の時代の当時、僕らは週末といえば渋谷にいて「マイク握るぜ?」「マイクよこせ!」「マイク貸せよ!」とういうやり取りしていた。あれから、遭難した奴もいれば先輩方はジャンベやカホンを叩き、僕はと言えばこうして鉛筆にしがみついている。
...
一、大村浩一という男
詩のフォーラムで、大村浩一という男と出会った。当時、パソコン通信の世界では、オンラインで知り合った相手と直接顔を合わせる「オフ会」というのが盛んに行われていた。その席で、手帳を片手にやたらに参加者の詩の経歴とかを聞いて回る不審な男で、最初僕はてっきり運営会社の社員が参加者の身元調査をしているのかと思った。
しかし実際は長い年月、詩の創作に携わってきた方で、遊び半分でも参加できるネット上の同人誌で、少しでも真剣に詩を描かれている方を探していたのだと知った。本業の傍ら、詩集の自費出版の手伝いもされていた。
...
T-Theaterというのは、1996年に僕が立ち上げ、その後十年余りの期間活動を続けた、詩の朗読を中心とした舞台集団の名称である。結成から四半世紀ばかり過ぎ、十五年ほど前に活動を終了した集まりについて、記憶はかなり薄れているが、覚えていることを書き残しておくことにする。
初めに僕のことを書いておけば、二十代の半ばから塾教師という仕事をしていた。午後から出勤し、深夜に帰宅するという生活である。ネットもメールも、スマートフォンどころか携帯電話も普及していなかった時代である。世間の普通の人々とは時間差生活をしていて、周囲とのつながりも失せていた。僕は自分自身ではそうした状態を「世捨人生活」と自嘲していた。
1993年、三四歳のときに、パソコン通信を始めた。
...
長く生きているととんでもなく嘘をつく人に出会う
ついてもつかなくともいい嘘ばかりをつく人に出会う
そういう人は人に迷惑をかけるタイプではなくてどうでもいい嘘ばかりをつく
真夜中十二時になると死んだ兄が私の部屋のドアの前に立つのと真剣な顔でいう 興味をそそられる話に夢中に聞いてしまうのだ
時々辻褄が合わないのでこれも嘘なのだと呆れながら笑ってしまう
昔恋愛相談を聞いていて
泣きながら彼が私を思って死んでしまったらどうしようという 振られたのは彼女だ
あんまり好き過ぎて好きだと自分でわからないのじゃない?と言うと
それはないと言う
この話は嘘とはニュアンスは違うけれど
詩の魅力はついてはいけない嘘はないということだ
たまにこの人の言ってる事は嘘に塗り固められていると感じる詩人がいる
嘘というより思い込みかもしれない...
フィジカルが消えた後、哀悼の意味でしか胸をくすぐり唇に遊ばせる言葉しかないのでは、何百年の跡地でその人の子宮を揺らせるか。
ただ墓が立っていて、1年に1度の賑やかしに使われるなら何も残らないでくれ。
俺を忘れてくれ。
紐付けられた私が邪魔をするのなら知らないでくれ。
あ、今日あの人の命日だ。
詩書いてたんだったねー ちょっと読んでみる?
残った言葉がお供えのまんじゅうと化し、思い出とか温もりの上でしか成り立たないのなら。
お前の心を破り浸食し血肉となり排泄の循環にならないのなら。
詩が私より前に来ないのなら、言葉が私を差し置かないのなら、私が死んだ瞬間残した全ての詩は消えてなくなってくれ。
そんな事を書いていた。朝11時。
...
1
詩が発生する。
のは、どのような時か。
2
ずっと前に中国に旅をした。ある街角で誰かがカメラをごつん、と道に落とした。「早く拾わなきゃ!」と一緒に行ってたグループの女の子が慌てて言った。一瞬の間があって
みんな笑った。彼女は、食べ物を落とした時の〈3秒ルール〉と勘違いしたのだった。そのことが分かってみんなは大笑いし〈あ、これ食べ物じゃないから関係ないよネ、関係ないよネ、何秒とか!・・!〉と照れたように彼女は何度も周りに間違いの言い訳をした。
3
...
ホームルームの時間に
「将来君たちが本当にやりたいことを
ノートに書きなさい」
と言われた。
僕はどれだけ考えても、『登山の後デビットボーイと一緒に、露天風呂を探して雪あかりの道を辿っているところ』しか浮かばなかった。
『山の露天風呂には、年配の男性がいて、僕が入ると「悪いけど妻を連れて来ても良いかい?」と言う。
振り返るとデビットボウイはもういなくて、僕は一人で照れて黙った。
やがて奥さんがやって来て、裸の僕は
恥ずかしくて、背中を向けて口笛を吹いた。
「ごめんなさいね坊や、その曲なごり雪でしょ、私も好きよ」
そう言って奥さんは湯に浸かりながら小声で歌った。
僕は黙って星空を見ているふりをした』
そんなところを、教室で想像した。
ノートはいつまでも白紙だった。
9歳の時に、犬のチョン太郎が死んだ。
とても哀しくて元気のない僕に
母が言った。
「犬は死ぬと友達になって帰って来るんだよ」
1年半くらい前だろうか。
2021年9月末。馬野ミキさんから連絡をもらった。
久しぶりだった。
無力無善寺というライブハウスで共演したのが2020年9月。三上寛さんの出演の日だった。
その日は、高円寺に着いてから、履いてきた靴が突然、途中でボロボロに壊れて歩けなくなった。本当に前に歩けなくなったので、近くの靴屋までなんとか靴というか足を引きずって行き、靴を買った。
馬野さんは、高い声がかわいらしくて印象的だった。いか釣りの話を少しだけしたのを覚えている。この日、「テトラポットでシンナーを」という曲を聴いて以来、テトラポットを見るたびに馬野さんのことを思い出すようになった。
...
けんごさん、こんにちは。秋月祐一です。
【原作】覗き穴の向こうの雨粒を
扉を開けて見ることもなく