奥主 榮(Okunushi Ei)


奥主 榮

1959年、東京中野に生まれる。いじめられっ子だった。子どもの頃から、いつか「消滅」して何も残さず消えてしまいたいと思っていた。

1971年、ジョン・レノンのアルバム「ジョンの魂」を聞いて、号泣する。毎晩、オープンリールのテープレコーダーに録音したアルバムを、泣きながら聞き続ける。手書きで写した対訳を、何度も読み返す。自分でも、詩を書きはじめる。

1974年、高校受験で受けた高校は、すべて落ちる。二次試験で合格した高校の生物の授業で、衝撃を受ける。当時、さまざまなことに悩んでいた僕にとって、高校教科書に載って間もない遺伝の精緻な理論は、さまざまな悩みを晴らしてくれるものなのだと勘違いする。

1977年、分子生物学が学びたいと大学へ進む。出来が悪いので、卒業までに五年かかる。その中で学んだことは、僕が悩んでいたことは生物学の理論では解決されないということと、体系的にものを考えることの大切さ。

1982年、血液検査の会社に入るが、適応できずに退社。別な職種を選び、その後四半世紀以上、同じ職種を続ける。一応、まだ続けている。自分の対人関係に対する不器用さに辟易し、「世捨て人」になる。

1994年、世捨て人に飽きる。30代半ばで、パソコン通信(この時代、まだインターネットは普及していなかった)NIFTY-serve(後の@Nifty)の「詩のフォーラム」でそれまでに書いてきた自作詩を発表し始める。

1996年、「短いシングルの音楽が娯楽であるのと同じように、詩の朗読も必要な人には十分な娯楽」という主張の下に、詩の朗読の舞台集団T-theaterを始める。舞台美術、照明、音響なども作り込んだ舞台を続ける。赤字で、蓄えがどんどん減る。自分でも馬鹿だと思う。

1999年頃から、「詩と思想」に原稿が出るようになる。詩の雑誌では原稿料が出ないということを、初めて知る。なんだか、十代の頃(1970年代)に読んだ漫画雑誌「ガロ」が、原稿募集の広告の中に、「原稿料は出せません」という文言を盛り込んでいたことを思い出す。うろ覚えの記憶なのだけれど、「これはとても大切なことです」と書いていたと思う。詩の雑誌は、原稿料が出せないということしか書かないのだな、と思った。以降、僕が頂いた原稿料は、「詩学」の寺西さんからの500円のみである。寺西さんの最期を思うと、けして軽んじてはならない500円だと思う。

2009年、五十歳に第一詩集「日本はいま戦争をしている」(土曜美術社出版販売)が同社のシリーズ「現代詩の新鋭」の一冊として出る。近所の飲み屋のオヤジに、「ずいぶん歳食った新鋭ですね」と冷やかされる。

2013年、第二詩集「海へ、と。」(土曜美術社出版販売)が同社のシリーズ「叢書社会 現実・変革」の一冊として出る。冷やかしてくれた飲み屋は、既に閉店していた。冷やかしさえされなかった。

2015年、エッセイ集「在り続けるものへ向けて」(コールサック社)が同社のシリーズ「詩人のエッセイ」の一冊として出る。初めて小さな段ボール箱一杯の感想をいただく。精神状態がひどくて返事が出せず、申し訳ないと思う。

2017年、第三詩集「白くてやわらかいもの.をつくる工場」(モノクローム・プロジェクト、らんか社)が、「ブックレット詩集」の一冊として出る。タイトルのピリオードの位置がややこしいと、あちこちで言われる。

2019年、唐突に思い立って、本名の関明夫名義で詩集を出す。「みらいのおとなへ」(モノクローム・プロジェクト、らんか社)が、「ブックレット詩集」の一冊として出る。相変わらず精神状態がひどくてあちこちへの発送などが出来なかったため、在庫が自宅に山積みになる。笑うしかなくなる。

2021年現在。とある喫茶店が奥主の本を置いてくれている。その店にふらっと訪れた大学生が、「学校の課題で、詩について書かないといけない。今日、お店で読んだ『みらいのおとなへ』を題材にしたいから、借りても好いですか」とお願いしていったそうである。

詩を書いていても、金儲けにはつながらなかった。むしろ、貧乏に拍車がかかった気がする。でも、そんなふうに感じてくれた方がおられることが、自己満足かも知れないけれど、僕にとってはとても嬉しい。